〜だっせん〜15 父の絵日記を紐解く“少年の昭和史”④ -みまさかぞく#031
前回「こもこも」と言う蟻地獄のお話で、私は「こもこも」を知らないと書きました。すると、それを読んだ妹が「私はこもこも知っとるよ!おじいちゃんの離れの塀下にあった」とLINEをくれました。知らないのは私だけだったのかも。
さて、今回も昭和33年の夏休みにタイムスリップして、父の絵日記を紐解いて行こう思います。
1.8月2日(土)曜日 天気(くもりあめ)
《原文》
ゆうべ、おかあちゃんがおきたので、ぼくも、おきました。おかあちゃんが「きょうちゃん、おねしょを、しとら」といったので、ぼくは、ほんとうじゃ、といいました。おかあちゃんがでんきをつけようとおもったら、ていでんなので、つきません。ろうそくで、ぱんつをさがしてくれました。
先生より
かわいい、きょうすけくん、あったこと、しょうじきに、かいたので、よいえ日記ですね。
《解説コーナー》
絵を見ると、おねしょをしたK少年はシクシク泣いていて(もしかしたら羞恥心?)、おかあちゃんの持つ蝋燭の火はゴウゴウと燃えている…(この真っ赤な灯りは、蝋燭でパンツを探してくれている母への想いの表れなのかな?と想像します)。
先生のおっしゃる通り、「正直で、こんな絵日記も良いなぁ」と娘の私も思いました。
昭和30年代を知っている方々に訊くと、「ここら辺はよー停電しょったで」「まーた停電じゃーとよー言いよったし、どの家にも蝋燭があった」と話していました。
美作町への電力供給は、大正元年より倉敷電気会社によって火力発電で行われました(当時は湯郷村)。各家庭に電力供給されたのは大正7年頃から。この辺りは鉱山があり、養蚕が盛んだったため、比較的早い時期に電灯が普及しました。しかし、安定した供給はまだまだ先だったようです。
2.8月3日(日)曜日 天気(はれ)
《原文》
きょう、すもうを、みに、いきました。いったら、多ぜいきていました。すもうとりが、かつと、みんな、「わーあ」といいました。ぼくも、「わーあ」といいました。そして、にいみこうこうが一とうになりました。
《解説コーナー》
どこに相撲を見に行ったんだろう?
私の感覚でお相撲といえば、テレビで見る国技館しかないのだけど…と思って調べてみると、美作町史にたくさん写真がありました。昭和20年代から横綱や大関のお相撲さんが美作町に来ていました(中山間地域への巡業)。
私の祖父が相撲好きで、いつもテレビで観ていました。その横で私も観ていたから、お相撲は身近なスポーツです。でも、本物のお相撲さんを見たことがありません。いつか見てみたいです。
地域では、子ども相撲も行われていました。
父が絵日記に書いたのは、↓↓この時じゃないかな。ちょうど昭和33年の写真がありました。ものすごい観客ですね。
父の絵日記に「新見高校が一等になりました」と書かれています。新見高校は岡山県の北西にある県立高校です。当時、相撲部があり、高校生の相撲大会もあったのかなと推測します。
3.昭和30年代の美作を回想する④
岡山方面から湯郷温泉へ向かう時、少し手前の鷺湯橋を渡ります。鷺湯橋は昭和30年に竣工されました。その今昔を写真で紹介します。
現在、この橋は、「ゆーらぎ橋」に名前変更され、歩行者専用の橋になっています。
「ゆーらぎ橋」は、鷺の形をした噴水、イルミネーションで美しい橋に。
新しい「鷺湯橋」は、その200mほど離れた場所に、昭和63年、施工されました。
橋を渡ると湯郷温泉街があります。
昭和30年代の美作は、人口も多く活気があったんだなと感じます。
どの時代に生まれ生きるのかは、誰にもわからないけど、色々な時代の軌跡を辿るのは興味深いですね。
読んでいただきありがとうございます。
また次回お会いしましょう。
参考文献
『津山美作真庭の昭和』樹林舎 2020
『津山美作今昔写真集』樹林舎 2013
『美作町史 写真編』美作町 平成15
『美作町史 地区誌編』美作町 平成16