先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 ペリー来航と津山藩-)37 #086
みなさん、こんにちは。ゴールデンウィークが始まりましたね。
毎朝のウォーキングの道で、気にっていた草がありました。アスファルトを押しのけ生えようとしている草…。
20日経った写真が以下です。
このパワーすごいなぁと思います。
私は周囲を見渡し、草刈りへの闘志を燃やしています。
明日は、この法面を刈る予定です。
さて、本題です。岡山県津山の江戸時代をたどっています。前回は津山藩医 箕作家三代の業績をまとめました。
箕作家の活躍を調べていると、「1853年 ペリー来航」というキーワードにぶつかりました。
当時の津山藩主や津山藩医たちは、ペリー来航(その他海外との交渉)の影響を大きく受けていたのです。
津山藩主と津山藩医の年表に、アメリカ軍艦ペリー来航を加えてみました。
まず、1639(寛永16)年から約200年以上に及んだ鎖国について調べました。
(『岡山蘭学の群像2』参照)
1.鎖国とは
鎖国とは、
・長崎の直轄地化と長崎奉行の設置。
・日本人の海外渡航禁止。
・ポルトガル船来航禁止。オランダ人は出島に軟禁。
・幕府直営貿易は長崎限定(中国とオランダのみ)
・長崎港の防衛は福岡藩、佐賀藩、大村藩の軍役。
・対アイヌ交易は松前藩が担当。
・朝鮮王国の対応は対馬藩。
・琉球王国は薩摩藩が対応。
・全国の諸藩に海岸防備をさせ、異国船が漂着したら幕府に通報させるシステム。など。
これらは国内向けの鎖国体制であり、国際的孤立状態を意味してはいませんでした。よって、こういった中でも、多くの異国船がやってきました。
例を挙げると、
・1739年陸奥、安房、伊豆の海岸沖合にロシアのシュパンベルクが来航。「元文の黒船」。
・1792年、ロシアのラクスマン一が根室に入港。「ラクスマン来航」。
・1808年、イギリス軍艦が長崎港に不法侵入。「フェートン号事件」。
・イギリス軍艦プロビデンス号も蝦夷地の測量に。
・1811年「ゴロヴニーン事件」
これらのように、西洋諸国の使節や、艦船の来航が、頻繁に生じるようになったのです。その結果…
→支配層は、西洋の動向を知らないといけないと思う。
→蘭学(洋学)の必要性が高まる。
→諸藩や下級武士や庶民たちも、海外の動向に関心を持つようになる。
そのような中で、宇田川家や箕作家は活躍していました。
そしてついに、
1853(嘉永6)年、ペリーがやってくるのです。
2.ペリー来航1回め
1853(嘉永6)年6月3日(西暦では7月8日)、浦賀(神奈川県)沖に現れた4隻のアメリカ合衆国の軍艦「黒船」によって、日本国内は騒然となります。
ペリーはなぜ来たか?
ペリーが来ることになった経緯
アヘン戦争をきっかけとして、西洋諸国がアジアの国々への関心を高めていた1840年代、アメリカ合衆国は領土拡大の最中でした。
西洋とアジアを結ぶ海路としてはアフリカ南端の希望峰を回ってインド洋を渡るルートがありましたが、途中にある寄港地の多くはイギリスの支配下でした。
太平洋を横断するルートを開拓すれば、アジアと直接行き来ができて便利だと考えたアメリカは、日本を補給基地として重要視するようになり、日本に開国を迫るという計画が、海軍を中心に検討され始めます。
ペリーはこの計画の実行に当たり、艦隊長官になりました。
日本への順路
ペリーは、シーボルトらの日本に関する書物を読み、日本人の気質などを研究して、1852年11月24日、海軍基地ノーフォークを出発します。希望峰周りのルートで約4ヶ月かけて中国に向かい、上海で東インド艦隊と合流。
琉球と小笠原諸島にも補給基地を確保した上で江戸湾を目指したのでした。
日本の対応
多くの日本人が驚いたペリー来航ですが、実は前年にオランダ商館長の「別段風説書」によってアメリカから開国を勧める使者か来るという情報が、幕府中枢には届いていました。しかし、ことの重大さが十分には認識されぬまま、その日を迎えてしまいます。
↓「ペリー来航絵巻」
ペリーは、自分と対等な立場の役人との面会を要求し、長崎への回路も拒否する強硬な姿勢をとりました。さらに到底かなわない武力を前に、幕府はついに大統領親書の受け取りを決意。
浦賀奉行に対応させて久里浜にペリー一行を上陸させ、親書を受け取ったのでした。
「翌年、再び来る」と言い残して、ペリーが去った後、幕府は親書の内容を公開して広く意見を求めると言う前代未聞の対応を取ります。
寄せられた意見書は800通にも及んだといわれますが、結局は回答の先延ばし以外の対策も決められぬまま、年を越してしまいました。
津山藩の対応
ペリー来航に対し、津山藩はどのような対応をしたのでしょうか。
この初回来日では津山藩の出動はありませんでしたが、情報探索担当として、箕作秋坪が、浦賀に派遣されました。
秋坪は、6月10日(ペリー来航は6月3日)の夜に江戸を船で出発し、翌日午後2時頃、浦賀に到着。
浦賀へ向かう途中で江戸湾内を測量中のアメリカ側の小舟と遭遇し、10m足らずの距離まで接近するという緊張の瞬間を体験しました。
津山藩医 箕作秋坪の報告
秋坪の報告書には、「ペリー側が作業している所を通る時、関わりを持ったら大変だと覚悟し無言ですり抜けた。浦賀は静か。アメリカの熟練ぶりに多くの人が感嘆した。しかし、傍若無人に我が国の内海に入り込むのはよろしくない」ということ、
さらに、ペリーへの下賜品(綿、吸物腕、団扇、煙管、鶏、玉子)、ペリー側から幕府への献上品(金巾、フラスコ、砂糖)のこと、
「ペリー側が約束の時間に出帆しないことに浦賀奉行所が気を揉んだこと」などが記されていました。
↓秋坪の報告絵図
3.次回のこと
幕府がペリーの開国要求について各藩の意見を集めた際、津山藩主 松平斉民は江戸城に登城して意見書を上申しています。
次回は、松平斉民の「開国論」と、ペリー2度めの来航と津山藩医の活躍について調べていこうと思います。
4.クラフト津山城3回め
クラフト津山城を作成しています。
今回はここまで。手前の2つを作りました。
制作した部品は↓この箱に入れています。同僚からのお土産の箱(^^)
↓津山市立図書館から見た津山城。すごくアップで撮りました。
次回もよろしくお願いします。
【参考文献】
『津山市史 第四巻 近世Ⅱ 松平藩時代』 平成7年3月 津山市
『津山市史 第五巻 近世Ⅲ 幕末維新』昭和49年3月
『わたしたちの津山の歴史』平成10年1月 津山市教育委員会
『郷土 津山』津山市教育委員会 平成25年3月
『ペリーが来たぞ!』津山洋学資料館 平成20年10月
『資料が語る津山の洋学』津山洋楽資料館 平成22年3月
『岡山蘭学の群像2』山陽放送学術文化財団 2017年4月
『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年
『津山藩』岩下哲典 現代書館 2017年10月
Wikipedia
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