先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 -『解体新書』と宇田川玄随-)18 #067
みなさん、こんにちは。
雨の日…車のフロントガラスに紅葉が張り付いていて、何だか可愛くて写真を撮りました。
先祖が生きた地、岡山県津山市の歴史を調べて18回目です。前回は江戸時代の蘭学(洋学)について調べました。津山の歴史で外せないポイントです。
今回から、津山の蘭学者、宇田川三代(玄随、玄真、榕菴)について進めていくのですが、宇田川玄随と杉田玄白とのつながりを調べていたら、『解体新書』制作の話がとても興味深くて、立ち止まってしまいました。
よって、先にこのお話をしてから、津山の蘭学者、宇田川玄随のことに触れたいと思います。
1.蘭学のはじまり
江戸時代、幕府はキリスト教の流布や外国勢力を恐れ「鎖国」をしていましたが、中国とオランダだけは例外で交易を行っていました。
その中で、8代将軍吉宗は享保の改革における学問奨励策の一環としてキリスト教と無関係の書物の制限を解除しました。これを契機に、オランダ語の書物を読み、翻訳、研究する動きが広まります。それが、蘭学の始まりです。
津山からも有名な蘭学者が多数出ています。
今回は、その中の1人、宇田川玄随(1755〜1797)です。玄随は、杉田玄白と深い繋がりがありました。
宇田川玄随
名…晋(しん)
号…槐園(かいえん)
2.杉田玄白『解体新書』について
『解体新書』が出版されたのは、1774(安永3)年。文字を通して体系的に紹介された解剖書です。
それ以前にも「解剖書」はありました。
五臓六腑説
『解体新書』が刊行される、15年前、1759(宝暦9)年に、京都の医師山脇東洋が行った腑分け(解剖)の記録『蔵志』です。
五臓六腑とは、人間の内臓は5つの臓(肝.心.脾.肺.腎)と6つの腑(胆.胃.小腸.大腸.膀胱.三焦)があるということ。図のような形状をしていると考えられていました。
腑分けは、「人体の内部には五臓六腑がある」という漢方医学を確認することを目的として始められた解剖のことで、1754(宝暦4)年に山脇東洋が初めて行いました。(当時は死罪に処せられた囚人の遺体を用いました)。
『ターヘル・アナトミア』
そのような時期に、若狭小浜(福井県)藩医の杉田玄白(1733〜1817)は、ドイツ人医師クルムスが書いた※『ターヘル・アナトミア』オランダ語版を手に入れます。
※『ターヘル・アナトミア』…ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスによる解剖学書のオランダ語訳書の、日本における呼称。
その解剖図が、五臓六腑説と異なっていることに着目し、腑分けに立ち会う機会をうかがっていました。
1771(明和8)年3月4日、小塚原(東京都荒川区)の刑場で腑分けがあることを知った玄白は、豊前国(福岡県)の藩医、前野良沢らと共に見学へ行きました。(腑分けされたのは京都生まれの「青茶婆」と呼ばれ大罪を犯し処刑された老婦)
玄白らは、腑分けされた人体の内部と、『ターヘル・アナトミア』の図が同じであることに驚き、「ターヘル・アナトミアを力を合わせて訳そう!」と約束します。この時、玄白は「通詞の力を借りず翻訳したい」と提案し、良沢らは喜んで同意したそうです。
『解体新書』ができるまで
腑分けを実見した翌日から、『ターヘル・アナトミア』の翻訳が開始されました。場所は築地の前野良沢の家。この時代は、和蘭辞書はなく、蘭仏辞典や蘭羅辞典(オランダ語をラテン語で説明した辞典)を頼るしかありませんでした。
暗中模索の中、翻訳の基本方針が決まります。それは「訳に三等あり。一に曰く翻訳、二に曰く義訳、三に曰く直訳」。
翻訳…(現在の直訳)既存の日本語.漢語を当てはめる。ex.「Been(ベン)」は「骨」で「Beenderen(ベンデレン)」はその複数形なので「イ面題験」と言う漢字を当て「骨」と訳した。→骨、心、肺、胃など。
義訳…(現在の意訳)言葉の意味や働きに合う日本語を使って訳す。ex.「Zeenuw(セイヌン)」は「世奴(セヌ)」という漢字を当て「神経」と訳した。→神経、軟骨、十二指腸など。
直訳…(翻訳も義訳もできない時、現在の音訳) ex.「Klier(キリイル)」の意味がわからなかったため、機里爾(キリイル)とした。後に「腺」と訳された。
『蘭学事始』で玄白が語ったこと
杉田玄白は、※『蘭学事始』で「初めて観臓してオランダの解剖図と照らし合わせ、大きく違っていることに驚かされた。なんとかしてこのことを早く明らかにして治療で役立たせたい。また世の中のさまざまな医術の発明に役立たせたいという志のみであった」と語っています。
※『蘭学事始』…杉田玄白が1815(文化12)年に書いた回想録。同時代の蘭学者の逸話、『解体新書』の制作話などが紹介されています。
↓このような本も出ていて、参考にさせていただきました。
『解体新書』の完成
翻訳が進んでいく中で、玄白と良沢に考え方のズレが鮮明になってきました。
玄白は「多少の違いがあっても早く世に出すべき」。
良沢は「少しの間違いもあってはならず、時間がかかっても完璧なものを出すべき」。
妥協案として本編の要約版を先行発表することに。それが「解体約図」。人体図は日本画家の熊谷俄克。この約図には前野良沢の名は書かれていません。
翻訳開始から3年、1774(安永3)年、『解体新書』が刊行されました。前野良沢は自分の名を出すことを拒んだので書かれていません。
良沢が名前を出すことを拒んだ理由…原稿の推敲を続ける良沢に、玄白が「間違いがあって、自分の名に傷がつくのを恐れているのではないか」と言ってしまい、その言葉に良沢は「全責任はあなたが負いなさい。私の名前は一切ださないでもらいたい」と告げたからだそうです。
『解体新書』は、日本初の本格的な翻訳書として大きな話題になりました。
漢方医からは批判の声が上がり、玄白の元を訪れ文句を言ってくる者もいましたが、持ち前の社交性でうまくあしらったそうです。
3.津山の蘭学者 宇田川玄随
杉田玄白が活躍していた頃、津山藩に宇田川玄随(槐園)という藩医がいました。
『解体新書』が刊行された1774年、玄随は20歳でした。
宇田川家は、玄随の父の代に津山藩に召し出され、玄随は鍛冶橋(東京駅の南側)の津山藩邸で生まれています。
漢方医だった玄随は、当初新しい学問に反発しました。しかし、友人の医師曾昌啓の紹介で、杉田玄白・前野良沢の弟子、大槻玄沢に出会い、蘭学の道へ進むことを決めます。
そして、約10年をかけヨハネス・デ・ゴルテルの内科書を翻訳し、1793(寛政5)年、39歳で日本初の西洋内科医学書※『西説内科撰要』を3巻ずつ6回に分けて刊行しました。
※ 『西説内科撰要』は病名ごとに、病状、病原、兆候、治療法が書かれ、全18巻。
杉田玄白も『蘭学事始』で「津山侯の藩医に宇田川玄随といへる男あり。これは元来漢学に厚く、博覧強記の人なり」「元来秀才にて鉄根の人ゆゑその業大いに進み」と述べています。
1792(寛政4)年、玄随は、津山で初めての腑分けをし、町医者たちに見せました。その場所は次の項目で紹介します。
玄随は、刊行途中、43歳で亡くなります。その後は養子の宇田川玄真が引き継ぎ、刊行しました。
4.津山の腑分け(解剖)した場所
玄随が腑分けを行った場所は、現在の津山市川崎の兼田地区。加茂川西岸にある刑場でした。出雲街道沿いにあり、人の往来が多い場所だけに、見せしめとして多くの重罪人が斬首され、遺体が河原に埋められたそうです。
その場に千人塚があるので、行ってきました。
供養脾は、1790(寛政2)年に建立され、当時の藩主 松平康哉もしばしば参拝したそうです。
5.玄随のお墓に行ってきました
津山市西寺町の泰安寺に宇田川三代のお墓があります。10月末に行ってきました。
※杉田玄白のお墓は、東京都港区虎ノ門の栄閑院、前野良沢のお墓は、東京都杉並区梅里の慶安時にあるそうです。
6.次回は…
宇田川玄随について、かなり急ぎ足になってしまいました。
次回は…実は宇田川三代のお墓に行った時、とても興味深いことをいくつか知ったので、これらのお墓について詳しくお話したいと思います。
玄随の隣は玄真、榕菴のお墓が並んでいます。
長文になりました。読んでくださり本当にありがとうございます。
3000文字を超えると、読んでくださる方が大変になるかも…と心配になりますが、終わり時がわからなくなって、早口で話すように書いてしまいました。
ここまでの文字数(約3900文字)。
次回もよろしくお願いします。
【参考文献】
『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年
『宇田川三代の偉業』津山洋学資料館 平成元年11月
『蘭学事始ぴあ』ぴあ株式会社 平成30年1月
『蘭学事始』長尾剛 PHP研究所 平成18年12月
『わたしたちの津山の歴史』平成10年1月 津山市教育委員会
『岡山の歴史』柴田一監修 1990年7月 山陽新聞社
『宇田川三代の偉業』津山洋学資料館 平成元年11月
『岡山蘭学の群像3』山陽放送学術文化財団 2018年7月
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