先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 杉田玄白が語る宇田川玄真 後編-)23 #072
みなさん、こんにちは。
先日、飛行機に乗る機会がありました。お天気と席に恵まれ、機内から富士山が見えました。今年の締めくくりとして、その様子をご紹介してから、本題に入りたいと思います。
とても幸せな時間でした。
さて、本題です。今回は、前回の続き、宇田川玄真についてです。
1.少しふりかえり
宇田川玄真は、岡山県津山の蘭学者(津山藩医)で、江戸時代のベストセラー医学書『醫範提綱』『和蘭薬鏡』などを著し、「蘭学中期の大立者」と称された人物です。
玄真は若いころ、少しの間ですが杉田玄白の養子になっていました。そのいきさつは『蘭学事始』に詳しく記されています。
今回は、杉田玄白が『蘭学事始』で語った玄真のこと、後編です。玄真が岡山県津山に来た過程も明らかになります!!
※『蘭学事始』…1815年(文化12)年、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記した手記。
杉田玄白は自身の老いからも、後継者を望んでいました。そんな時、大槻玄沢から玄真を紹介されたのです。
2.玄白が語る玄真(後編)
玄真を学問の後継者に
私は早速に玄真を呼び寄せ、問いただしました。「君は本気で生涯を蘭学にかける決意はあるのかね」と。
「言うまでもございません」玄真は一瞬のためらいもなく答えました。そして、彼の言葉からは蘭学への情熱がほとばしっておりました。
「よくわかった。私のところに来るなら、何不自由なく蘭学に打ち込ませてあげよう。当家の蘭学資料は天下一だ。自由に使っていい」
私は玄真を迎え、彼と父子の契りを結んだのです。私は玄真という息子を得て喜びいっぱいでした。
これだけの“学問的後継者”が現れてくれたからには、もう思い残すことはない。
父たる私の喜び、読者の方々はどうかお察しください。
離縁を決意
なのに、何たることか!全くもって情けない!彼にはどうも移り気なところがあり、それがじょじょに災いへと向かっていったのです。「血気盛ん」だったと表せば聞こえは良いが、要するに酒色におぼれて、いつの間にやら放蕩の日々を過ごすようになっていったのです。
優秀な人間ゆえの自惚れでもあったのでしょう。自分は蘭学界のトップ学者とでも思っていたのでしょうか。
私は朝帰りの彼をつかまえては意見しました。ですが、同じ過ちの繰り返し。
何度忠告したか解りません。しかし悪いクセは直らなかった。
悩みました。
そして苦渋の決断をしたのです。
玄真は今更ながら慌てました。
こうして、私は玄真と縁を切り長く交わりを絶つこととなったのです。
私の失意がどれほどだったか、どうかお察しください。
改心する
玄真が杉田家から絶縁された話は、蘭学者の間に広まりました。こうなると、誰もが玄真を表立ってかばわなくなりました。
玄真は当家に離縁されてから、だいぶ困窮したようです。しかし、蘭学への情熱は失わず必死に学んでいたそうです。
私を裏切った玄真でしたが、彼には“周囲が放っておけなくなるような魅力”が備わっていたようですな。こうした事態になってなお“第二世代”の蘭学者たちは、彼を可愛い後輩として密かに守っていたのです。
稲村三伯(←YouTubeです)なども、密かにカネを与えて玄真の暮らしを援助してやったそうです。
私は杉田家を継がせる良き嫡男に恵まれなかったため、一人の青年を養子としておりました。それが伯元でした。
伯元は三伯から相談を受け、私の蔵書からオランダ医学書を1.2冊持ち出し、玄真に貸し与えたのです。
三伯と伯元とは、私の蔵書を使って、玄真に“翻訳のアルバイト”をさせてやっていたのです。この件は、当時の私は全く気づいていませんでした。
玄真は江戸に出て私のところへ来るまで、恵まれていました。しかし私から放逐され、初めて孤独の中に学問の道の厳しさを知ったのではないでしょうか。
そんな自分を見捨てず守ってくれた先輩たちの温かさ、ありがたさが身に染みて解って来たのでしょう。
ようやく心底反省し、甘えを悔い改めたようです。三伯が『ハルマ和解』作りに挑んでいたのもこの頃。
有能な玄真の手伝いが『ハルマ和解』完成の大きな力となったのは言うまでもありません。
宇田川姓を継ぐ
そんな状況で、2〜3年過ぎた頃です。あの宇田川玄随が、気の毒にも病のためなくなりました。1797(寛政9)年のことで、まだ43歳の若さでありました。
玄随には後継がいませんでした。津山藩の侍医として代々務めてきた宇田川家は、ここで断絶させるわけにもいかず、ふさわしい養子を探していました。
とこの時、三伯たちは考えたのです。
玄真の宇田川家入りを仲立ちしたのは三伯でした。こうして、玄真は「宇田川玄真」となったのです。
玄真のそれからの努力ぶりは見違えるほど立派なものでした。1805(文化2)年に出版された『医範提綱』などは名著ですな。ちなみにこの書、木版ではなく、我が国初の「銅版」による印刷で実に美しい。評判になりましたな。
つくづく周りに好かれる男
私に頼み込みに来たのは、ほかならぬ我が息子、伯元と大槻玄沢でした。
「あの者はすっかり悔い改めました。蘭学への志は今度こそ本物です。宇田川家も立派に継いで玄随殿もきっと喜んでいるはずです。先生の所へ再び現れることをどうか許してやってください」と深々と私に頭を下げるのです。
この頃には私の憎しみは解けていました。「解った。玄真の当家への出入りを許そう」と私は快く答えました。
「申し訳ございませんでした」玄真が私に詫びて、また元のように親交を重ねるようになったのは、それから程なくです。
玄真の私に対する態度は、真の敬愛を示すものでありました。私の過去のわだかまりは水に流し、彼を我が子のように慈しみました。
杉田玄白が語る玄真のお話は以上です。
蘭学者三世代の人間味あふれる内容で、とても興味深く読むことができました。
3.宇田川玄真のお墓に行ってきました。
津山市にある宇田川玄真のお墓に行って来た様子です。(宇田川家のお墓が東京から岡山に移転された経緯はこの記事と、この記事書いています)
宇田川玄真(名は璘、玄真は字、榛斎と号す)
4.次回のことと、ミニおまけ
次回は、宇田川家の三代目、玄真の養子となった、宇田川榕菴について書いていこうと思います。
「珈琲」の当て字は、榕菴が考えたものといわれています。津山には榕菴珈琲、榕菴ショコラも売られています♬
コーヒー、お菓子の紹介もしたいと思います。
おまけはコーヒー繋がりで。
noteの記事を書くようになって、津山に行く機会が増えました。先日(クリスマス前)、津山イオンのスタバに寄ったら、店員さんが試食をくださいました。嬉しい♬
読んでくださりありがとうございます。今年はこの記事で最後にしたいと思います。
1年間、ありがとうございました。来年も、先祖の生きた地、岡山県津山市の歴史を深めて行こうと思っています!よろしくお願いします。
みなさん良いお年をお迎えください。
【参考文献】
『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年
『宇田川三代の偉業』津山洋学資料館 平成元年11月
『蘭学事始ぴあ』ぴあ株式会社 平成30年1月
『蘭学事始』長尾剛 PHP研究所 平成18年12月