安易に信じず、安易に疑わず
「世の中は嘘が多い。安易に信じることは大人げないのでは」
「正直者は馬鹿を見る」という記事の中で、私はそう書きました。
それでは、何でも疑ってかかるというやり方はどうでしょうか?
世の中のいろんなことに対して、いちいち、
「しょせんは金目当て」
「どうせ癒着してるんでしょ」
「既得権益を守りたいだけ」
などと邪推することはできるかもしれません。
でもそうやってあまのじゃく的になんでも邪推しても、結局はネット上に飛び交う陰謀論の安易な信者になってしまいそうな気がするんですね。
疑ってかかったつもりでも、結局、安易に信じることにつながってしまうのなら、いったいどうすればいいのでしょうか?
答えは、二つあると、私は思っています。
思いて学ばざるはあやうし
一つは、世の中についてきちんと学ぶことです。
世の中のことをきちんと学べば、いろんなことがちゃんと正しく見えてくるのではないかと、私は思っています。
現代社会はすごいスピードで変わっていて、私はともすればおいていかれ気味なのですけれども。これについていかれる人、学び続けられる人はすごいと思います。
世の中のことをきちんと学ばずにわかった気になってしまうことこそが、落とし穴なのかもしれません。
論語でも「思いて学ばざるは、すなわちあやうし」って言いますよね。
勉強不足なままでいくら考えだけをめぐらせても、それは知的に誠実な態度とはいえないのだろうと思います。
もちろん「忙しいから」学ぶ手間を惜しんだのだって言いたくなるところですが、それって「怠惰だから」と紙一重なのかもしれません。
私も気をつけなくてはいけないと思っています。
知らざるを知らずとなせ
もう一つは、不確かなものを受け入れることです。
私たち人間は、不確かなことがあると、信じて肯定するか、または疑って否定するか、どちらかにすぐ決めたくなるという性質があるそうです。
肯定か否定、どちらかに飛びつくのではなく、わからないことはわからないのだと、そのまま受け入れることが大切だというんですね。
これも論語ですが、こんな言葉がありますよ。
「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなせ。
これ知るなり」
自分にわからないことはわからないと言ってしまえる勇気が大切なのかなと思いました。
信じるか疑うかは、いますぐ決めないくらいがちょうどいいのかもしれませんね。
ときには学んだり、ときには受け入れたりしながら、自分なりのペースでやっていかれたらいいなと思っています。