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サッカーは自己表現の手段でしかない
ここ数年、モヤモヤがずっとありました。2020年のコロナ騒動が始まってからでしょうか。ずっと何かにモヤモヤしている自分がいました。
そしてそのモヤモヤが何だったのか、ようやく見えてきたような気がしたので、こうして書いてみることにしました。
正直、これを読むみなさんが何を思うのかは分かりません。もしかしたら何いってんだこいつって思うかもしれません(これまで沢山思ったかもしれませんが)。
でも、結局他人がどう思うかを気にしていたら、本当に自分自身が感じていること考えていることなんて発信できるわけがないんです。
サッカーは自己表現の手段だと思ってきましたが、他の手段にもなり得ることが前提での自己表現の手段と自分なりに定義していました。
しかし。
今回至った結論は、サッカー完全に自己表現の手段でしかないというものでした。
タイトルは普通ですが、この思考に至ったプロセスの部分がもしかしたら誤解を生むかもしれませんし、遺物に触れたような感じに思うかもしれません。悲観的に感じられることも多いかもしれません。でも、そういう視点もあるということを伝えたいという思いが強くあります。
そして、この世界で生きてきたからにはこの価値観は残したいと思っている自分がいます。
このモヤモヤの正体が分かり始めてから率直に思ったのは、選手としてのキャリアの終盤をこのような考え方で迎えるとは思っていなかったということです。でも、これは必然だったとも感じずにはいられません。
自分自身の競技スポーツとしてのサッカーに対する考え方は、環境を変えるごとに、経験を重ねるごとに、フェーズが移行するごとにこれまで様々な変化を遂げてきました。
むしろそれを考えるのがサッカー人生のテーマだったかもしれないと思うほど、サッカーについて死ぬほど考えてきたと自分では思っています。
そしてそこには常に何かしらの「疑問」がありました。
常に何かに対して「疑問を持っている自分」がいました。
ちょうどファンアプリで過去に書いたノートの連載を始めたこと、それらを振り返って読み続けていく中でも、当時の私は常に何かと戦っていて、何かに抗っていて、何かに葛藤していました。
それは常にサッカーのルール、目的や構造に抗う「自己表現」したい自分との戦いだったように感じています。
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みんなが協力しあって生きていける社会へ。愛と共感力で、豊かな世界を創っていきたい。サッカーが私にもたらしてくれた恩恵を、今度は世界に還元していきたいです。