一部として生きる
自分という人間は、チームの一部。
1人では何もできない。
生きている以上、人と協力しなければならないけど、同時に色んなものと戦わなければならない。
そんな矛盾の中で生きてきて、良い思いもしてきたし、歯がゆい思いも沢山してきたけれど、それ以上に間違ったことも沢山してきたなって思う。
もちろん、生き抜いていくために正当化しなければならない時もあった。
自分の意図とは違う解釈をされて、理解されない時もあった。
自分が傷ついていた以上に、もしかしたら誰かを傷つけていたかもしれない。
生きる喜びを感じながらも、生きる恐怖も感じていた。
それでも何かと戦っていた。戦おうとしていた。
ただ、それがなぜか自分でも何かよくわかっていなかった。
今思うと、若かったというか、こだわりが強すぎたというか、視野が狭かったというか。
人のことを想う・考えるということを理解できていなかったというか。
比較的若いときに、自分の立ち位置を把握しなければならないって気づかされて、こんな人生予想してなかったよ思いながら、それを把握して理解するのにも時間はかかったし。
自分の中である種のせめぎ合いがあったりして、自分の主観とは別な視点が必要で、そこに自分の意志や想いが重ならなかったりする時もあった。
表現する言葉によって、それが時に「自意識過剰」「自己中心的」と捉えられてしまうこともあったりした。これも結局自分の表現力不足。
自分の位置における役割を果たさなければならないという責任を強く感じていたけど、それができない自分に対して情けない、かっこ悪い、超ダサいって思ったことも沢山あった。
いつまでたっても未熟で、大人になりきれないなって自分では思ってる。
本当はクールで凛としてかっこいい女でありたいって思ってるけど、なんか今いる自分が素の自分だなって思うし、その本質的な部分で昔から変わらないんだなって感じる。
幼い時から「誰かになりたい」とは思わなくて、「自分になりたい」っていう思いは強かったと思う。
憧れのサッカー選手とかもいなかったし、サッカーもそんな見てなかったし。下手くそな自分がとにかく嫌だったっていうのは今も昔も変わらなくて、兄妹に負けたくない、比較されたくないっていう想いも強かったかな。
でも結局、上達していく過程が面白くて続けているんだなっていうのが根本にある。
世界的に見たら、私は突出して技術的に優れたサッカー選手とかじゃない。
それなりに点は取ってきたけど、それは自分の技術的な能力のおかげじゃなくて、味方との連携があって、そして協力があったから。人のことを理解して、自分のことを理解してもらうっていう、そういう仲間に恵まれた環境でプレーできたから。
そもそも、サッカーってそういうスポーツだと思ってる。
けど、選手の問題はチームの問題でもあるけど、チームの問題は選手の問題でもある。これだけはいつも肝に命じてる。
自分がなんなのか、何のためにサッカーしてるのかわからなくなる時も沢山あったし、今も時々わからなくなるけど、それくらいがちょうどいいんじゃないかなって今は思う。今は。
この仕事が、今は純粋に楽しい。
一生できる仕事じゃないけど、、、
地球規模で考えたらサッカーのフィールドなんて本当に小さな空間だけど、その小さな空間で、そこにいる人たち、かかわる人たちに何かを与えられる機会があるって、最高に幸せなことなんだと思う。
まぁ、いきなりこんなことを書くと何かあったの?って言われるのが通常ですが、特に何もありません。
ただ、ニュースなんてほとんど見ないんだけど、昨日、自分が尊敬する人の情報を久しぶりにキャッチにしにいって、感化されました。
2年近くお会いできていないお方で、いつも私より遥か先をいくお方。
私より15年も多く生きているし、想像を絶することを数多く乗り越えて今もなお最前線で走り続けるお方なのでそりゃそうなんですが・・・苦笑
まぁ、自分と比較しても無駄なので。
自分という人生という壮大な物語の主人公は、常に自分自身。
もちろん、脚本・監督も自分自身。
ただ、自分自身は誰かの人生の物語の脇役でもある。
いうたら、脇役になれただけでそりゃもう幸せなこと。
色んな物語が、この世界で繰り広げられている。
その物語同士がどんな繋がりを持っているのか。
どんな繋がりを生み出していくのか。
そして自分の人生を、どんな物語にしていくのか?
大いに悩み
大いに考え
大いに感じ
大いに学び
大いに遊び
大いに仕事をし
紡いでいきたい。