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愛と共感力が世界を救う

ーーー人間には、本能的に(もしくは遺伝的に)備わっている能力がある

そんなことを考え始めたのは、恥ずかしながらもほんとここ数年のこと。そういう視点で物事を深掘りして考えたことはなかったし、感情論というか精神論というか、そういうのを否定する社会の風潮とかもあったし、私の中で「科学」と「非科学」という存在をどうも混在させて考えることができず、さらに白黒が好きでグレーが苦手というタイプだったので、ここにたどり着くまでに結構遠回りした感じがする。

人の行動の本質を考えるのはもともと好きだったし、その人それぞれの行動パターンを分析して結果を手繰り寄せる手法をドイツにいた時に使ったこともあって、ドイツ語がとにかく理解できなかったのでとにかくそこに対して時間を費やしていた。

考えを巡らせて辿っていくと「目に見えないエネルギー」という存在を抜きにして物事を考えることは不可能なことに気づき始めた。それを考えるきっかけとなった本がこの2つ。


「意識」というのは、本当に摩訶不思議な存在(存在といっていいのか微妙ですが)だと感じていて、科学的な専門用語とかあまりわからないので自分の言葉で書き綴っていきますが、「意識」がこの世界を作り出していることを感じ始めたのが、ちょうど大学生くらいだったかな。10年くらい前の話。


もともと、私はなんかちょっとヲタク気質なところが昔からあって、こういうことを考えることもそうなんだけど、変なところで凝ってしまう癖もあった。

小学生の時は人の名前を覚えるのにハマっていて、学校で配られるプリント用紙の裏に、ひたすらクラスメイトの名前を書き綴ったり。多分、とにかく字を書くのが好きだったと思うんだけど、漢字練習をするにしてもノートの空白が綺麗に漢字で埋まっていくのが快感だったのか、ひたすらノートに書き綴っていたのもなんとなく覚えている。

この「綺麗に」というのがポイントで、この美しさを極めるというのは幼いながらになぜかしっかりとこだわりがあった。

他にも収集グセというのもあって、使い終わったホッカイロをハサミで切って開けてその粉をディズニー缶にひたすら集めたり。中学生あたりからトイストーリーが好きになって、ひたすらトイストーリーグッズを集めたり。それは今でも捨てられずに実家のクローゼットに眠っている。

他にも、ペットボトルのお茶の飲みかけを窓際に放置したらどうなるのか?というのがなんか無性に知りたくなって経過観察を楽しんだり(カビ?みたいなのが生えてきて気持ち悪かった)、自分でも理由がよくわからないことを結構やっていた。

中学生の時の休み時間には、ひたすら壁に向かって一人でキャッチボールをしていたり(友達いなかったんだろうな。友達作りは今も苦手です)。こうして色々と振り返ってみると、同じことを「繰り返す」という作業はそんなに嫌いじゃなくて、むしろそこに面白さを見出すタイプだった。

ただ、自分では変なことやってたつもりはなかったけど、周りからしてみたらちょっとクレイジーな感じだったみたいで、とにかくひたすら何かを繰り返すことに楽しさを見出してしまったので、ハマったらどハマりして凝ってしまうという性格になった(後天的にそうなったのか、もともとそうだったのかは定かではない)。


話がそれたので、意識の話に戻そう。


「意識」と「思考」というのは内的生産性のことを指し、実際のアクションとなる外的生産性に強い影響を与える。具体的には、意識が「行動を起こすエネルギー」、思考が「行動の質」といった感じ。


私の場合、12歳くらいから親に「目標」を強烈に意識させられた。


「何になりたいのか?」「どこを目指したいのか?」


ちょっとでも弛んでたり怠けたりしていると、ことあるごとにものすごい剣幕でこの問いを投げかけられた。この頃から、特に父親は地雷のような恐怖の存在へと変わった(今となってはそんなことないが)。

もはや、自分の意志とは関係なく半ば強制的に高みを目指すことになっていた感じもある。ただ、これがあったから「意識する」ということが習慣化されたので、結果オーライというかむしろ親に感謝。

サッカー選手に憧れてサッカー選手になったわけでもなく、兄妹のせいでサッカー始めることになって、なんかよくある「幼い頃からの夢が叶った!」的な感動ストーリーとは全くかけ離れているし、これはこれでどうなんだろうと思うけど、まぁそこは置いておいて。


目標を文字にする


夢や目標を持って生きることは、私にとっては当たり前に幼い頃からあって、そうやって教育されてきた。ただ、これは全ての人にとっての当たり前の生き方ではないということを前置きした上で、この話をしたい。


もう20年くらい前の記憶なので断片的にしか思い出せないけど、「思考を文字にする」という体験で最初に思い出されるのは、持っていたサッカーボールに「日本代表選手になる」って書いたというか、書かされた(と思ってる)こと。

毎日自分が練習で使用するボールに「日本代表選手になる」って書いてあったら、そりゃ嫌でも意識するし、その目標がただの目標でないということも自覚し始める。


サッカーを始めた頃は好きでやっていた部分と、やらされていた部分と、多分半々だった。兄妹と比較されるのは嫌だし、兄に負けるのはいいけど妹に負けるのは恥ずかしい、自分が不器用だったのは自覚していたので頑張らないといけないし、手を抜いたら置いていかれるしっていう環境だったので、嫌だとかなんだとか嘆いている場合ではなかった。


そんな環境にさらされ、さらにそんな心理状況で「そんなんで日本代表になれるのか?」って、父親に何度言われたことか。あの頃の私の心は3分の1は闇だったと思う。ただ、これは一種の愛の形でもあったと思う。


結局そんな感じが高校生まで続き、16歳で本当に日本代表選手になったけれど、自分のレベルが代表レベルに達していないことは自覚していたし、自分が思い描いていたようなタイミングではなかったことが大きく影響し、この現実から逃げ出したいと思っている自分と戦っていた。


ただ、頭の片隅では、いつもなりたい自分を思い描いていた。

いつかそうなれると信じて、上手くなりたくて自分の存在価値と意義を見出したくて、バカみたいに練習した(質は低かったし効率は非常に悪かったので、バカみたいにと表現)。この頃から、ゴールを決めないと自分には存在価値はないって思い込んでた。だからそこへの執着が半端なかった。


ただ、経験を重ねて年を重ねて、思考を重ねて、ゴールだけが自分の存在価値を示す方法ではないってわかるようになってからは、サッカーとの向き合い方やチームメイトとの関わり方も変わった。

思考は必ず現実になるけれど、タイミングはコントロールできない。ただ、そのタイミングというのには必ず意味がある。それは未来になってわかることもあるし、その時わかることもあるし、それに気づくのもまたタイミング。

実現したいと思ったら、具体的に文字にしたり言葉にしたりすることが重要で、毎日それを目につくところに掲げたり、毎日文字にして書いてみたり、言葉にして人に話したり。


意識によって習慣が作られ、その習慣が未来を作る。


意識というのはエネルギーを持っている。目には見えないけれど、それは行動という形になって表面に現れる。


何かを身に付けたいと思ったら、まずは毎日繰り返し意識してそれを習慣化すること。これに尽きる。これはどんなことにでも言えること。


そして、細かいところまで想像する。
未来においてそうなっている自分の視点で想像する。

そうすると、不思議とそうなる。いつそうなるかはわからないけど、そうなる。これは間違いなくいえる。

10年前に書いたこのブログ。この頃は、哲学的で病んでる人って思われていたなぁ。苦笑



自分の目標に対してもそうだし、自分の行動を変えたい時もそう。自分を変えられるのは自分だけで、人は自分を変えることはできないし、自分は人を変えることはできない。


ただ一つ言えるのは、自分の行動を変えれば、自分も変わるけど、世界も変わるということ。


人類みな兄弟


なんで意識の話をしたかって、この世界を作るのは人の意識だということを伝えたかったから。そして、この世界をより良い世界にしていきたいと思っているから。


日本という奇跡の国に日本人として生まれて、30年ちょっと生きてこられて、自分の未来よりもこの世界の未来のことを考えることが多くなった。


アメリカに住んでいてる、運転してたら急に歩行者やドライバーに中指立てられることもあるけど、それでもやっぱり人類みな兄弟。


この本を読み終えて、自分の行動を見つめ直そうと思った。自分の行動を変えれば、もっとより良い世界にしていける。そんなことをさらに強く感じた。


人生の扉はすでに開かれていて、この先人類が生き延びていくには、自分の心を開けるかどうかが最大のポイントだと思う。


アメリカにきてから、以前よりも心を開いて人と接することができるようになってきたし、そうなったことで、人と繋がること、関わること、共感すること、人の心に愛情を持って寄り添うことで、さらに強いエネルギーを持って生きていくことができている気がする。


人知を超えた何かがこの世に存在することは確か。


長期的な種の保存のためにいちばん親切で一番協調性のある者が生き残る。人間は協力し、子供を育て、全員の利益のためにともに繁栄するよう進化を遂げてきた。


ダライ・ラマは「愛と共感なしに人は生きられない。それがなければ、人類が生き延びることはできない」と語る。



人に対して誠実な関心を寄せる。
どんなときも笑顔を忘れない。
人の名前を覚える。
とにかく聞き手に回る。
人の関心のありかを見抜く。
そして、人を心から褒める。


これは全て、他者への愛。


人生をより良い方向に変えるには、他者の人生を助けること。


自分の行動が、他者の人生の一助となれるように。


これからそういったアクションをもっと起こしていけるように。


LOVE AND PEACE




みんなが協力しあって生きていける社会へ。愛と共感力で、豊かな世界を創っていきたい。サッカーが私にもたらしてくれた恩恵を、今度は世界に還元していきたいです。