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東久留米で過ごした小学校時代の話。

小学2年生から6年生の9月まで、西武池袋線沿いの東久留米市に住んでいた。私の生まれは北海道だが、父の転勤で、この期間だけ家族で東京に越してきたのだ。

私たちが住んだのは「東久留米第2公務員住宅」という古ぼけた集合団地だった。でもここでの思い出は、人生の中で1位、2位を争うほどキラキラしている。本当に楽しくて、小6の秋に札幌の小学校へ転校するときは、泣いて、泣いて、大泣きしたものだ。

エレベーターなしの5階の家

東久留米第2公務員住宅は、1号棟から16号棟くらいまであった。1棟は5階建てで、1棟につき、団地の敷地と同じくらいの広さの芝生広場がついている。

私たちの家は8号棟の5階だった。エレベーターはない。

8号棟のとなりには、「汽車ぽっぽ公園」という汽車型の遊具がある公園があって、私の家は、8号棟の中でもいちばん汽車ぽっぽ公園寄り。ベランダから、今公園に誰がいるのかがよく見えた。

オレンジの丸で囲まれた部屋が私の30年前の家

学校へ行くときや遊びに行くとき、2歳下の妹と1階まで降りてから忘れ物に気付くことがあった。そんなとき、最初は5階まで取りに戻っていたのだけど、次第にめんどうになって、道路から「マーーマ———!!」と二人で叫ぶようになった。

最初、母は「投げるよ〜!」と窓から忘れものを投げ落としていたけど、あるとき閃いたのか、直径30cmくらいのカゴに長いひもをくくりつけ、カゴに忘れものを入れて、窓から「降ろすよ〜!」と滑車みたいに降ろすようになった。今思うと、同じ列に窓がある下の階の人たちからも、カゴやひもが見えていたと思う。

母は、真面目だけどちょっと破天荒な性格で、周りがやらないようなことも軽々とやってのける。

学童みたいだった自宅

私は、自宅から小学生の足で20〜30分のところにある東久留米市立神宝小学校に通っていた。1学年は2クラスで、私がいつも一緒にいたのは同じ団地に住む4人の女の子と、3〜5人くらいの男の子たち。遊ぶときは1組も2組もごちゃ混ぜだった。

4年生くらいからだろうか。

女の子も男の子も、放課後、私の家に遊びに来るようになった。うちが汽車ぽっぽ公園の目の前ということもあるし、母が手作りのおやつを出してくれるからというのも大きいだろう。私も小学生の母となった今なら、保護者が家にいて歓迎してくれる家が、どれだけ小学生の溜まり場になりやすいかがわかる。

母は専業主婦だったが、このころには隣駅のひばりヶ丘にある手芸店でミシン講師のパートを始めていた。放課後は家にいたので、短時間勤務だったのかもしれない。

すごく記憶にあるのは、ある日の放課後、仲のいい男の子3人が私の帰宅より早くうちにいたことだ。母はすでに手作りのおやつを出していて、男の子たちも普通に遊んでいた。

母は子どもたちが来ると嬉しそうだったし、子どもたちも母に「ママさ〜ん!」と懐いていた。私よりも母目当てで来る友達がたくさんいて、多いときで10人はいた。団地なので部屋は狭い。すし詰めの学童状態だったが、みんなの目的が母であれ、私はいつも家に友達がいることがうれしかった。

母は、私たちが外で遊ぶときにも、滑車のカゴでおやつを差し入れした。

ちなみに、母の血を受け継いだ私が今、息子の友達に同じようにできているかというと「とんでもない」の一言である。私は基本リモートワークなので家にいるが、そもそも、時代の流れで、30年前のように気軽に子どもの友達におやつを提供することはできない。アレルギー持ちの子がいたらトラブルになるからだ。

それに正直、そんなにたくさんの子ども、私一人で見る自信がない。小学生は自分たちで遊べるとはいえ、「ママー!」「◯◯のママ〜!」と頻繁に呼ばれるのは必須である。毎日なんて気が狂いそうだ。

母に当時のことを「大変じゃなかった?」と聞くと、「みんないい子だったから」。「何して遊んでたんだっけ?」「何してたかなぁ? ゲームはしてなかったよ」。

「保護者はみんな顔見知りだったの?」と聞くと、「知ってる子もいたけど、知らない子のほうが多かった」。「うちみたいな家、ほかにもあったっけ?」「ううん、うちだけだった」。

これを楽しんでやっていたのだから、小学生のお世話は母の天性だったのだろうなと思う。

学校の先生が濃い!

神宝小は、どこにでもある公立小だった。初めて見たときは、校舎のおんぼろ具合に「お化け屋敷みたい…」と絶望したが、通ってみると見慣れて気にならなかった。

小学校生活で、印象に残っている先生がいる。いそべ先生という、男性の音楽の先生だ。当時の私から見ると若くて、子どもながらに「先生は本当に音楽が好きなんだなぁ」とわかる、情熱ある先生だった。

あるとき、私たちの学年はいそべ先生の指導のもと、他校も出場する合奏コンクールに出ることになった。神宝小の音楽室には木琴や鉄琴、ティンパニ、4〜5台のキーボード、本格的なドラムセットと、あらゆる種類の楽器があった。息子の小学校にはピアノと木琴・鉄琴、あとはトライアングルやカスタネットといった小物楽器しかない気がするので、もしかしたら、音楽に力を入れている学校だったのかもしれない。

発表曲は壮大なクラシック(メロディは覚えてるのに曲名が思い出せない!)で、私は木琴担当として一生懸命練習したし、合奏コンクール当日、全員で演奏したときのゾクッとした感覚は今も忘れない。

音楽室にある楽器は、休み時間に自由に使えた。高学年のころ、仲のいい4人の女の子と楽器で遊んでいたら「バンドをやりたいね!」と盛り上がったことがあり、ダメ元でいそべ先生に「バンド部をつくりたいです」と伝えてみた。先生は「いいね!」と快諾してくれ、本当に私たちは、部員5人のバンド部として、放課後に練習を始めたのだ。バンド部は、いつからいつまで続いたのか忘れてしまったけど、自分たちのアイデアが本当に形になったときのうれしさは覚えている。

そのほかにも草花の知識が豊富すぎる理科の先生がいたり、担任の先生が厳しくも愛ある先生だったり……。

37歳になった今も、「あのとき転校しないで、東久留米にずっといられたらどんな人生だったかな」と思いを馳せることがある。

もしかしたら思い出が美化されているだけかもしれないけど、とにかく東久留米で過ごした日々は宝物。近いうちに、一人で、家族で、また訪れてみたいと思う。

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