世界から角が消えたら
裸足で家の中を歩いていると、足の小指をぶつけることはないだろうか?
どこに?
タンスの角に。
または、椅子の足に。机の足に。
筒状だったらまだ、そこまで痛くない。
しかし、角ばった椅子の足だと、痛くてたまらない。
タンスの角なんて、もってのほかだ。
痛くて痛くて、しばらく、うっ(なんでこんなところにぶつかってしまうのだ)と自分の歩いてきた家の中のルートを呪う。
そう。
角がなければそこまで痛くない話。
刀や剣で戦っていた時代。角が鋭く尖っているから、相手を弱らせ、自分たちの力を拡大させることができた。
今はどうだろう?
刀というものがなくなる代わりに、インターネットや、見えない世界の技術が発達した。さらに、見えない空間では、離れていてもコミュニケーションをとることのできる、言葉というものが現れた。
その空間での言葉。
言葉はときに、私たちを苦しめるようになる。
見えない角がそこにはあるのだ。
考えれば、角は世界中にある。
世界から角が消えたら、どうなるだろう?
それはきっと、
ぶつかっても、痛くない。
痛ってーー!と苦しむこともないだろう。
相手に刺さることもないのだ。
もし、角がなかったら、緩やかな丸みを帯びているのかもしれない。
もし角が、丸いものになったら、言葉は時に交わるかもしれないし、優しく包み込むのかもしれない。
ぶつかっても、ぽい〜んと跳ね返るのかもしれない。
角を個性とするならば、話は別だ。
個が大切になるこれからの時代。
個性は、思いっきり尖っている方がこれからはいいのかもしれない。
けれど、私は、あえて丸く、さらに私なりの凸凹でいたいと思う。
尖りは、日々砥石で磨かないと、輝かないし、鋭くもならない。
では、丸かったら?
凸凹していたら?
きっと、凸凹が壊れないように、タオルで優しく磨くのかもしれない。
丸かったら、泥団子のようにガラスで磨くのかもしれない。
どっちがいいということではないから、人それぞれだけれど
タンスの角で足をぶつけると、痛いでしょ?
たしかに
「丸くなったね」なんて、ばーちゃんが、じーちゃんに言っていたことを思い出した。
歳をとれば丸くなるものなのか?
まあ、頭の形はどんどん丸くなっていくのかもしれないが。
MacBookのキーボードの角は丸い。
いや、昔からそうなのかもしれない。
小銭はなぜ丸いのだろう?
四角の方が生産しやすそう?なのに。
角がないから、お財布の出し入れがしやすかったり、小銭同士が財布の中で傷つけあうことも少ないんだろう。
そういえば、亡くなったひいおばあちゃんに、幼い頃、よく「おはじき」で遊んでもらったことを思い出した。
おはじきは、とてもまん丸で、鮮やかな色をしていた。
光に当てると透き通っていて、キラキラ輝く。
私も、そんな、おはじきでありたいと思う。
www
結局おはじきになってしまった。失笑
まあ、いいだろうwww