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私達はここにいるのか?
先日、写真の展示だけでなく学校も備える総合施設International Center of Photography(以下、ICP)を訪れた際にやっていた【We are here(私達はここにいる)】という題の展示でなんとも言えない感じを覚えたので、それが何だったのか考えながら書いていく。
丁度お茶代の課題に写真があったので一石二鳥も狙いつつ。
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ICPの展示【We are here】は世界16ヶ国の写真家達約34人の作品を集めた展示。撮影された時期はバラバラで、共通点はいずれも道の上であるというのみで、路上の何気ない瞬間を収めたものから、ストリートにいる人の服装を記録したもの、デモ隊の様子など、スタイルは様々。日本のFRUITSという原宿のストリートファッション雑誌に載っていた写真もあった。
展示の始まりの部屋にあった数点が、人が写っていないもしくは個人の判別が難しいものであった為、『”私”はここにいるのか?』と疑問が湧いた。
勿論、私、ゆきんはその写真の中には居ない。
でもその写真が取られた時にレンズの前に居た人たちが”私”としてそこに居たのか?と言われるとかなりあやしい。
例えばスローシャッターで撮られた、人が霧の筋のようになっている写真に写っている人は、存在していなければ霧の筋が表れていないので確かにその写真が撮られた場所に居たと言えるけれど、それは街を構成するひとりの人間としての存在であり、”私”が存在していたという証にはならない。
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また、Googleマップに写りこんだ人達を写真として引き伸ばした作品もあった。
Googleマップだから、その写真が撮られた場所の緯度と経度、おそらく撮影された時間まで正確に割り出せるけど、ぼかし加工がされていたり、個人を特定する情報がないので、確かにその日その場所に居た証が写真に残っているのだけど、本人もしくは本人を知っている人が見なければ写っているのは匿名の誰か、誰でもない誰かなのである。
“私”と”私”を知る人のみが判別出来るかもしれない”私”が写っている写真は、”私”がここにいた証となるかと言われるとこれも怪しいのではないか?
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『”私”はここにいる』と主張する時、ファッションは自己表現の手段として、他者と私を区別する手段として有効な手段である。
これまではたまたまカメラが向けられた場所にたまたま居た”私”の写真の話だったけど、ではファッションススナップのようにファッションで自己表現をして被写体として撮られた”私”の場合はどうだろうか?
90年代原宿ファッションが好きだった私はFRUITSのストリートスナップに写っていた人は、常連なら当時は顔と名前が一致していた。
あの人また載ってるな、いつもコーディネート上手だなって追いかけている人も居たけれど、今回展示されていた人は名前の記載が無かったので1人も分からなかった。
当時、”私”として確かにそこに居た人達は、”日本のKawaii文化としてのアイコン”になっていた。
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例えば、馴染みのない国の民族衣装におけるオシャレが、本人は他人と”私”を区別する自己表現をしているのに対し、その人個人やその国の民族衣装を知らない人が見ると自己表現ではなく民族衣装のアレンジの1つにしか見えないように、ファッションで”私”がここに居るといくら主張しても、内部の目を持つ人以外にはやはり”私”がそこに居た事を証明しずらいのかもしれない。
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“私”の存在の主張として、ファッション以外に思想の主張もあるだろう。
権利を主張して戦った証が写真として残っていたら、大勢の中の1人では”私”がそこに居た証明としては成り立たないかもしれないが、例えば歴史に残るデモ隊を率いたとなれば、”私”がそこに居たとの証明にはなりうるかもしれない。
それには、歴史に名を残す事が必要になる。
どうやら、”私”がここに居ると証明する為には、”私”の顔と名前が一致する他人が必要なようだ。
自分だけが自分の顔と名前が一致して、”私”はここにいる!といくら叫んでも、自分以外の他人が顔と名前のどちらかでも分からなければ、それは知らない誰かがどうやらそこに居た事があるらしい。で終わってしまう。
そもそも、『私はここに居る』なんてよく聞くフレーズだけど、ここってどこなのか、それを主張して何がしたいのか、段々分からなくなってきた。
写真に写ってる人達は皆、どこか知らない街に居た知らない人達で、明日になればきっと忘れてしまう。
大都市ニューヨークの写真展に展示されるような写真に写っていても、“私”がそこに居た事を覚えている人が居ないって怖くないか。
あぁ、そうか、写真に残っている事によってどこの誰かは分からないけど写真に写ってるその人が写真に写っているその場所に居た証になるのか。
匿名の”私”がそこに居た証なんだ。
今日展示を見た人が明日写真に写っていた”私”を忘れても、写真が残る限り”私”はそこに居るんだ。写真の中に、写真に写る場所に。
そう考えたら写真って凄いな。
永遠だな。
いい写真撮りたいな。
最近は写真を印刷する機会が減ったけど、昔はフイルムカメラで撮って現像•印刷するまでが1サイクルだったから、祖父母の家や実家に大量にある写真の整理に苦労している人も多いよね。
写真が残る限り”私”がそこに居た証明となると考えたら、古い写真を捨てるのはばかられるけど、祖父母や両親の友人や親戚って孫や曾孫世代になっていくと他人なんだよね。
段々、たまたまどこかの写真展で見た知らない街の知らない人の写真と同列になって、”私”がそこに居た証がいつか消えてしまうと考えると怖いな。
やっぱり”私”はどこにも居ないのではないだろうか?
『セールスマンの死』という戯曲があって、主人公のセールスマンは大した功績も残せないまま歳老いた時、家庭菜園を始めるの。
さして自然に興味も無かったのに、この世に何も残せないのではないかという恐怖から、数ヶ月から半年で実をつけて食べられる、目に見える成果物としての野菜を作る姿はもはやホラーだった。
写真だけじゃなく、作品と呼ばれるものはどれも”私”がそこに居た証明として有効な役割を担っているように思う。
人は命が尽きた時と、遺された人の記憶から消える時、2度死ぬとか言うけど、作品も”私”の記憶のひとつだよね。
出来れば長く愛され続けて欲しいけど、余程の傑作でない限りは人々の記憶から消えてしまう事は免れないのだから、”私”がここに居るという主張が届くのも今一緒の時代を生きている人と良くてその先数世代くらいなのかも知れないな。
段々怖くなってきたからこの辺でやめよう。
“私”は、その証明のあるなしにかかわらず間違いなくここに居る。
その裏付け資料のひとつとして、一緒に過ごした記憶や写真や作品なんかがあるだけ。
“あなた”はどこにいる?
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