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【刀剣乱舞】伯仲考察

 ついについに、伯仲の無双出陣が発表されましたね! しかも二振りだけの部隊。今から発売が楽しみです。(無双は結構ストーリーもあると聞いたので、何があってあの二振りの部隊になったとかやってくれるのでしょうか。わくわくします)

 さて、ここからはその発表でテンションがおかしくなった審神者が伯仲の考察をしていきます。しばしお付き合いください。

そもそも写しとは?

刀の「写し」本歌を敬い写し取って作った複製品ですが、本物の日本刀のこと。本物とは、材料が「玉鋼」(たまはがね)で作られているという意味です。

https://www.touken-collection-kuwana.jp/touken-basic-information/touken-imitation/

 上記にあるものが全てです。俺は刀剣に関して素人ですのでこれ以上こねくり回したりはしません。上記の定義をそのままこの記事における「写し」の定義とします。本科/本歌の表記揺れは、この場では「本歌」に統一します。

 定義決めついでに一つ。彼らの呼び方にはいろいろと考え方があるかとは思いますが、「山姥切国広」「山姥切長義」と刀帳に記載されている名で記すこととします。

「偽物」について

 回想56、57「ふたりの山姥切」において、山姥切長義が自身の写しである山姥切国広に対する発言、「偽物くん」。広辞苑によれば、偽物とは『似せてつくったもの。偽造品』です。明鏡や新明解にも同様の説明があります。偽造品のほうの意味としてとると、偽物=贋作ともなりそうなものですが、山姥切長義が自分を本歌として認識している以上、山姥切国広を写しであると認めているのは確かでしょう。よって、この場合の「偽物」は『似せてつくったもの』のほうが当てはまるかと思います。

 しかしこれは山姥切長義がそちらの意味を込めて言ったというだけに過ぎません。なぜなら山姥切国広は「写しは偽物とは違う」と切り返しているからです。

 写すとはすなわち模すること。模して作る、つまりは模造すること。はい、ここでまた天下の広辞苑様の力を借りましょう。模造とは、『実物に似せて造ること。また、その品』だそうです。本歌である山姥切長義に似せて作られたはずの山姥切国広が、もしも偽物を似せてつくったものという認識を持っていたなら、先程の台詞にはつながるとは考えにくいです。ならば、山姥切国広は偽物を『偽造品』、つまりは贋作に近い形で捉えていると解釈するのが妥当でしょう。

 これらのことから、「偽物」に対する意味の捉え方により、あのふたりはまぁとってもややこしいすれ違いを起こしているのだとわかります。日本語って難しいですね。

 では審神者側はどうでしょうか。「偽物」は偽造品という意味であると認識している人も多いのではと思います。俺も辞書を引くまでは知りませんでした。刀を鑑賞する人間にはそういう捉え方をしている人もお多かったのでしょう。写しの何たるかを知らずに、「偽物」と評されたことも2205年より先の時代を在る山姥切国広にはあったかと思います。だから「写しは偽物じゃない」という言葉が出てきたということならば、すっきり収まるような気がします。

 刀ステの慈伝でも、この「偽物くん」発言について各男士反応が違ったのは、このへんの意味の捉え方からくるものでは無いでしょうか。(新入りに仲間が貶されたならそりゃあ怒りますよ、そりゃね)

山姥切問題

 はい、やってまいりました。あえてここでは「山姥を斬ったのはどっちか」という話はしません。俺は山姥切国広の修行の手紙が公式としての答えだと思っています。ですので触れるのは一つ。どう呼ぶか、です。

 最初に言っておきますが、ここからの話は全て個人的な見解によるものであり、読者の方にお願いするものでも強制するものでものありません。少しでも駄目だと感じたならブラウザバック、が合言葉です。良いですね???? 行きますよ????

 山姥切長義と山姥切国広。刀剣乱舞における彼ら(史実等とは異なる場合があります)ではどちらも山姥切です。なぜなら山姥を斬った伝説はどちらにもあるから。歴史に諸説あり、です。しかし山姥切長義は回想56、57どちらでも「山姥切と認識されるべきは俺だ」という発言をしています。なぜでしょうか。山姥を斬った伝説は本来本歌である自分のものと認識しているから?

 皆さん、身近に同じ名前の人はいるでしょうか。もしくはよく呼ばれる愛称が同じ人、とか。俺には学生時代、愛称が一緒の、スクールカースト上位の陽キャで友達も多いクラスメイトがいました。俺は教室の隅で気の許せる友人数人とちっちゃくなっているタイプの人間です。まずもって下の名前で呼ばれることはありません。呼ばれたとしても愛称ではなく、下の名前そのままです。

 別に愛称ぐらい良いだろ、と思いました?

 それが当時の俺にとってはめちゃくちゃ大事だったのです。周りの人間にちっちゃい頃からそうやって呼ばれて育ってきました。本名同然に大事なものだったのです。それを学校に上がってその陽キャに取られてしまったように感じました。向こうだって同い年なのだから、呼ばれてきたであろう年数は変わらなくとも、です。

 これと同じようなことを山姥切長義は感じているのでは無いでしょうか。ただの長義作の刀では無く山姥切という自分に与えられた名が大切なのでは無いかと思います。どちらが先云々よりも、俺こそが山姥切だという強い意識を持っているのが、山姥切長義という刀剣男士なのです。呼ばれたい名を、心底大事にしている名を、ないがしろにされちゃあ誰だって嫌でしょう。嫌とまではいかなくとも、心が少しずつ傷ついていきます。

 名前は唯一無二の絶対的な自己定義だと俺は考えます。夢枕獏先生の作品・陰陽師の台詞を借りるならば『名前はこの世で一番短い呪』です。物語を基盤にして顕現する刀剣男士にとって、名前が負う役目とはかなり大きなものになるかと考えられます。名を否定されることは、それすなわち自己の否定。山姥切という名によるものが大きい山姥切長義にとっては、その重みもまた増してくるでしょう。

 とは言ったものの、髭切のようにあまり名に頓着しない刀もいます。(髭切の台詞を額面通りに受け取るならば、ですが)極めた山姥切国広も、髭切までとは言いませんが山姥切という名に固執していない様子が回想57からは読み取ることができます。おそらく刀としての有り様を山姥切、というよりも堀川第一の傑作に振ったからでしょうね。十刃十色。考え方も刀それぞれ。これに関しては見事に正反対のふたりです。

 俺個人の考え方としては山姥切長義を「山姥切」、山姥切国広を「国広」「まんばちゃん」呼びにするのが、審神者としてあのふたりにしてあげられることなのかとは思います。山姥切長義は山姥切として認識されることを望み、(特のころはわかりませんが)山姥切国広はその名に頓着していない。ならば、山姥切長義の意志を尊重してあげたい。完全に俺のエゴです。でも今はまだそれでいい。

まとめ

 いつか山姥切長義と山姥切国広の盛大なるすれ違いと、こじれまくった感情に落ち着く場所が見つかって、回想が実装される日が来るかもしれません。あるいは、ずっと答えが見つからないままかもしれません。俺たちは何もできないし外野が口を出すことでもないし、本当の歴史に寄りすぎることでもありません。あのふたりが何を選ぶのか、結局はそれにかかっていると思います。

 まぁとりあえずお互いの認識の違いぐらい話し合って埋めたほうが良いと思うよ。ほんとに。個人的な感想としては言葉足りてない感じが凄まじい。

 今回はここまでとします。また別視点からの考察を思いついたら記事を作成しますので、その時はよろしくお願いします。ありがとうございました!!

〈了〉

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