「通過 Ⅵ」
Ⅰから番号が振られた吉原幸子の詩篇「通過」、そのⅥをあらためて読む。
わたしから こころが溢れる
たぶん
小さくなったために
大きなものがもてるのだ
詩人は小さくなった自分をはっきりと受け入れている。それはハンディではなく、むしろアドバンテージだった。
そして、うたふ必要がなくなったと言う。うたふことは詩人にとって、
薬を塗る作業だったのか
傷をかきむしる作業だったのか
そう内省しては、小さくなったいまではそれはもう必要ないとする。ここにも確かな肯定があるようにみえる。
第5連は、
かりに 日常が
夕やけと 湯気と 愚かさであれば
それもいい
ながい むなしいたたかひのあとと
リンゴの完結と――
詩人はついに、小さきものの象徴であるありふれたリンゴの成熟に自己を重ね合わせている。小さくも、明確な声の「YES」が聞こえてくる。
私は、自分の存在が偶然の産物に過ぎず、取るに足らないちっぽけなものだと思ってきた。この現実を否定することができないでいた。一方ではそうではなく、こうして在る以上なんらかの必然があるはずだとも思ってきた。でもそれとて肯定することができなかった。
この詩篇を読み、詩人もさまざまな苦しい門を叩き、通過してきたことを知った。この詩人がリンゴなら、私などブドウの種ぐらいのものだが、苦しみを通過するにはかえって都合がいい。
詩人は、この「通過 Ⅵ」を最後に、この連作を終えている。そして、最終連にはこうある。
すべてが終わるとき ほんたうの大きさで
わたしは みるだらう
世界を