「にごりえ」にガツンと殴られる
誰しも教科書で一度は読みながら多くの人はそれきりになってしまう樋口一葉。むしろ五千円札の肖像のほうが有名かもしれない。その涼やかで凛然とした佇まいは相当の妙齢美人だが、しかし一葉が生きた時代は自由恋愛などできたものではなく、女性にあっては学問の道とて茨として閉ざされていた。
最近、近代文学を読み直しているが、真っ先に一葉の「にごりえ」を手に取った。三角関係の許されざる恋を一向に許さぬまま、一気に破滅を描き切る。しかし、行く末の覚束ない女心の揺らめきを描く筆はもう見事としか言いようがなく、まるで動揺を見せない。それは貧苦にあって学問小説を半ば諦めざるを得なくも、一意紙面に向かった一葉と重なってくる。
「情は吉野紙の薄物に、蛍の光ぴっかりとする斗」
縁が切れても胸のうちには未練が残る。その未練は、生きているあいだずっと宿ってはつきまとう。それは明るさには決して向かわず、不安という暗闇に走っては堕ちていく。行く宛てもなく、ともに社会の底流を生きた男女を乗せた舟が行き着いた先は、情死という無人の岸であった。
それでも一葉はそのことを明確には描かず、仄めかすにとどめている。むしろ重点は、寄る辺なき女の不安に支配された悲痛な心、現実に押しつぶされて行き場を失った男の絶望、そしてこの二人を結び合わせる恋の未練という楔にあった。迫力迫真の一葉の筆は、そこに一切の救済の手を差し伸べていない。
読後わなわなと鼓動が高まり頭が真っ白になった。そして、どこかガツンと心臓を殴られた気がして、もう再読する気にはならなかった。いずくの胸の内に未練を萌す私の濁った水は、もう二度と清らかには戻らないのかもしれない。