フィリピン旅行紀 2023.2
▶︎フィリピン旅行
2023年2月22日から26日早朝にかけ、フィリピンの首都マニラを旅行した。旅行前後でフィリピンという国へ抱く印象が大きく異なる不思議な国だった。この心境を忘れないうちに残しておきたく、本稿を書くことにした。
▶︎背景
私が小学生の頃、近所に住んでいたフィリピン人の母を持つ子と毎日のように遊んでいた。家族ぐるみで仲良くしてもらい、当時はその子の家族と一緒に海水浴に行ったりもした。
ある時、そのフィリピン人のお母さんが「私の弟はマニラの道で撃たれて殺された。マニラは空港ですら安心できない危ない場所だ。」と言っていた。それ以来、フィリピン(特にマニラ)は危ない場所として私の中に刻まれたが、一方で仲が良かった友人のルーツである国として、長い間興趣が尽きない国だった。(ちなみにその子とは成長するにつれ、結局疎遠になってしまった)
私は旅行代理店を経営していた母の影響もあり、幼少期から色々な国に旅行させてもらった。だが、フィリピンだけは上記の理由もあり、行こうとすると母から猛反対を受けていたため、中々行く機会に恵まれていなかった。
▶︎マニラへ
2019年末からコロナウイルスが猛威を振るい、海外旅行は著しく制限されたが、2022年の中頃から解禁の兆しを見せ始めた。3年間も海外旅行を制限されていた私にとって、やっと解放された気分だった。ちなみに最後に行ったのは奇しくもちょうど3年前の2020年2月、今は行くのが困難であるロシア・ウラジオストクだった。
会社の海外渡航自粛令も解かれ、早速私はマニラへのフライトを予約した。当初、最大の目的は北部の世界遺産ビガンだったが、期間と難易度を考えて断念し、最終的にはマニラ観光だけのプランに落ち着いた。
ジェットスターの19時30分成田空港発のフライト、機材はエアバスA320。LCCで5時間の空の旅は正直言って苦痛だった。まずシートピッチが狭いし、3列×2の座席で前方から後方までぎゅうぎゅうに詰め込まれた機体は、さながら毎朝乗り慣れた満員電車のように感じられた。
約5時間後の現地時間23時50分、マニラのニノイ・アキノ国際空港ターミナル1に到着した。この空港は通称NAIAと呼ばれ、フィリピンのジャーナリスト・政治家であるベニクノ・アキノ・ジュニアの名前が冠されている。彼はマルコス大統領の独裁体制の中でも国民の絶大な人気を得ていた政治家だったが、マルコス大統領体制晩年にまさにこのNAIAで暗殺された。この暗殺事件が独裁体制崩壊の引き金となり、エドゥサ革命が勃発した。なお、彼の妻は後に大統領となっている。
マニラの空港からはホテルの送迎サービスを使った。最近の東南アジア旅行では、Grabというアプリでタクシーを手配するのがセオリーとなっているが、マニラの空港から深夜に移動するのは大変危険だという記事を見つけ、安全を考えてそのようにした。なお、Grabは2日目から毎日利用したが、非常に便利だった。宿泊先のマカティからマニラ中心部まで400ペソ(1,000円)程度で行けるし、何より一般のタクシーより安全性が高い。ちなみにマニラを走る車はトヨタか三菱自動車が多く、ヒュンダイやスバル、スズキもたまに見かけた。
今回宿泊したホテルはラッフルズホテルグループの「フェアモント マカティ」という5星ホテルだ。いつもは安宿に泊まりがちな私だが、今回は奮発した。それでも一泊一人あたり10,000円程度と、国内旅行のホテル代を考えるとかなり破格に思える。ホテルのクオリティはサービス、設備含めてこれ以上ないほどで、マニラ旅行をする際は是非おすすめしたい。
▶︎マニラ3つの地区 マカティ
私は今回、メトロマニラの3つの地区を旅した。まずは宿泊したマカティを取り上げたい。
マカティはフィリピンが誇る大財閥「アヤラ」が開発した地区であり、メトロマニラが誇るビジネス街である。フィリピンの一般的なイメージとは異なり、東京とも遜色ない高層ビルや高級ホテル、ショッピングモール、プール付きの住宅などが多数立ち並ぶエリアだ。当然治安も非常に良く、夜でも女性が一人で出歩けるような地域である。
マカティにはグリーンベルトという巨大なショッピングモールがあり、世界各地の高級ブランドから地元の人が利用する携帯ショップまで出店しているフィリピン随一の商業施設である。日本からは一風堂や和民、丸亀製麺なども出店している。
この地区は良くも悪くも近代化されており、現地ならではの文化や生活はあまり感じられなかった。言わば外国人や富裕層向けの街であり、日本で言えば丸の内といったところだろうか。ここではストリートチルドレンや物乞いは皆無だった。
私のような外国人にとっては非常に安心できる場所だったが、この後に取り上げる地区と比較しても、この地区はマニラの中で特別だった。
▶︎マニラ3つの地区 イントラムロス
イントラムロスはスペイン植民地時代の名残がある地域であり、今旅最大の目的のひとつだ。と言ってもビガンとは異なり、その遺構のほとんどは第二次世界大戦の日米両軍の戦闘・空爆で破壊された。現在残るのは世界遺産サン・アウグスチン教会や、再建されたマニラ大聖堂、カーサマニラ博物館など一部だ。
イントラムロス地区は16世紀から21世紀初頭までマニラの中心であり続けた都市だ。元々はスペイン人とメスティーソのみが住むことを許された。
現在のイントラムロスは19世紀当時と同じく城壁に囲まれているが、そのほとんどはマニラの一般的な街並みと同じであり、一部はスラム化もしている。また、マニラの主要な観光スポットではあるが、大聖堂周辺を含めあまり観光地化されておらず、お土産店が立ち並ぶ日本の観光地などとはかなり違った雰囲気だ。
イントラムロスには現地の人々の生活を感じられる民家が数多く立ち並ぶ一方で、政府機関の施設や学校などの公共施設もある。マカティと比較するとかなりエキゾチックだが、日中の治安はあまり悪くなさそうだ。
ただ、やはりイントラムロスは観光地エリアと住宅エリアにかなりの貧富のコントラストがあった。東南アジアなどではあるあるだが、観光客に日本語で話しかけるガイド風の男もいれば、度々ストリートチルドレンの物乞いを見かけた。我々観光客は彼らを無視してカフェに入り、彼らが物乞いをしている姿を視界の端に捉えながら、1杯300ペソ(700円)近くするコーヒーを飲むというなんとも皮肉な光景が広がる。
戦争でこの地区の美しい街並みと、歴史の痕跡が破壊されたことが残念でならない。もし街並みが残っており、スペイン風の街並みが広がっていたなら、マニラはアジアの中でも随一の観光地になっていたと思う。
▶︎マニラ3つの地区 ビノンドとキアポ
ビノンドは植民地の時代、中国系の移民が多く居住していたエリアであり、現在もマニラにおけるチャイナタウンである。また、キアポはマニラのダウンタウンと呼べる街であり、厳密にはビノンドとは違う地区だが、隣接しているため同じく地区として記載したい。
一説には、ビノンドは世界最古のチャイナタウンだそうだ。数多くの中華料理店が立ち並び、横浜中華街のような門まである。自分がフィリピンにいると思えないほど漢字の看板が多数あり、さながら中国にいるようである。
一方でスペインの名残もあり、欧風だが独特な内外観を持つ、建築として興味深い教会が数多く存在する。
キアポは、ビノンド地区から少し歩くと到着する。ビノンドと同じく現地感満載の地区であり、ブラックナザレンで有名なキアポ教会を中心にマニラ1番の市場があるのが特徴だ。
この地区はあまり治安が良くないとされているが、裏付けるようにストリートチルドレンの数が特に多かった。マカティやイントラムロスと比較すると、フィリピンの人々の生活をより身近に感じることができた。
貧しくとも人々は逞しく生き、苦しそうな表情をした人も幸せそうな顔つきの人もおり、様々な人生がそこにはあった。キアポとビノンドはマニラの人々の生活を垣間見えるエリアだったと思う。
▶︎総括
今回はマカティで過ごした時間が長く、必然的にマカティの記載が多くなったが、個人的に1番印象に残ったのはキアポだった。キアポは私のイメージしていたマニラを体現していたし、私が海外旅行に求めるエキゾチックな感覚を与えてくれた。
だが、これはマニラに対する先入観でしかなく、もはや偏見と言っていい。確かに今も日本と比較すると治安は良くないが、現在のマニラは「当たり前のように人が銃撃されるスラムだらけの貧しくて危険な街」という過去のイメージを払拭しつつあり、目覚ましい発展を遂げている。マカティはその象徴であり、これからのマニラのイメージを創造していく地区ではないかと思う。ただし、完全なイメージ払拭には貧困や治安などの解決が必須であり、問題は山積みだ。
イントラムロスはスペイン植民地時代の歴史を今に伝えているが、同時にマニラの原点だ。イントラムロスの時代からマカティの時代へ。マニラはこれからも発展し、変わり続けるだろう。