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BEER(ビール) 担当:ヤナイユキコ
AM11:15
「セットのお飲み物はいかがなさいますか?」
来た、この時が。
ケイコは滑らかにそれがいつものように
「グラスビールで」
と、言った。ついに言った。
「グラスビールですね、かしこまりました」
主婦であろう女が、意外だと思われただろうか。
店員の表情が気になりそちらを向くと、バチッと目が合い、微笑み返された。
ケイコもマスクの下で笑みをつくり、心の中で呟く。「今日は歩きで来ました、飲酒運転はしません」
朝夕週5日通りかかる、フレッシュネスバーガーの入り口に貼られた「ハッピーアワー」のポスターに、かなり前から引力を感じていた。前と後ろに子供を乗せた自転車を倒すまいと踏ん張るケイコは
「16時から外でビールが飲めるなんてどんな世界線よ」
と、赤信号を見つめながらひとりごちた。
「おかあちゃん今なんて言ったの?」
「なんでもないよ〜」
現状に不満があるわけじゃない。
人混みを避けるように、子供たちを守るように、ケイコの自転車はブルーグレーに染まりゆく街を走り抜ける。
ただ少しだけ、この日常からはみ出したい、それだけのこと。喉の渇きを覚えながら、ケイコは欲望を飲み込んだ。
8と書かれた番号札をトレーにのせ階段をのぼり、フロアを見渡す。そこに知り合いがいないことにほっとする。悪いことをしているわけではないのにどこかこそこそしてしまうのは、昼間からビールを飲むのは悪いお母さんのような気がしてしまうからだろうか。
「まあ、いいお母さんでもないけれど……」
ケイコはそう自らを皮肉って、一番端のカウンター席に腰掛けた。
「お待たせしました。塩レモンチキンバーガーとポテト、グラスビールです」
当たり前のことかもしれないが、ケイコは目の前のトレーの中にあるものすべてが、自分のために用意されたものだということに感動していた。私が私のために注文したもの、そういう実感がひどくご無沙汰な気がしたのだ。
ガラス越しの青空を背に金色に輝くビールは、なんともおいしそうで刺激的で非日常を味わうにはケイコにとって十分だった。掃除も洗濯も夕飯の仕込みも全て終わらせてきたことはもちろん、コーヒーも飲まず、ここに合わせて朝から全力を注いだ自分を褒め称えたい気持ちが溢れ出る。
「主婦のハッピーアワーは午前11:00から午後2:00なんだから!」ケイコはそんな心の声を発しながら、スマホで一枚写真を撮る。
画面の中には早く飲んで欲しそうなビールとそれによく合いそうなハンバーガーが自然光に照らされ映えていた。が、すぐ消去する。
「これは私だけが知っていればいい、私だけの別世界」
PM11:15
ヒナコはインスタをスクロールしながら、カイトを待っていた。
実際のところ、インスタの内容は全然頭に入ってこないし、それよりうっすらスマホの画面に反射してうつる、自分の前髪やメイクが気になった。
「一緒に帰ろうよ」
ヒナコは大学二年生、カイトはもうじきこのバイトを辞めて、社会人になる。彼の就活が始まって、ただでさえ、シフトがかぶることが激減して滅入っていたのに、もう会えなくなるなんてヒナコは信じたくもなかった。そんな生きる活力を失いかけているヒナコに、カイトが声をかけた。一緒に帰ろうと。
「ごめんごめん、店長に捕まっちゃって。いこっか」
並んで歩くと、ヒナコの顔の横に、カイトの肩がある。その肩から伸びる長い腕に自分の腕を絡ませられたら、顔を埋められたら、抱きしめてもらえたらと、ヒナコは自分で自分の胸をチクチク突いた。
10cmの距離がとてつもなく遠い。
試しにそのシャツの裾を掴んでみたい。そうしたら、今いるこことは、違う世界にいけるだろうか。
「ちょっとコンビニ寄ってもいい?」
「はい、もちろん」
カイトは店内奥のドリンクが並ぶ冷蔵庫に向かって一直線に歩いて行く。
私の歩く速度は気にされていない、とヒナコは感じた。最初から分かってる、相手になんてされてないって。
「ヒナコちゃんもどう?」
と言ってカイトが手に取ったのは、大きな星が描かれた缶ビールだった。
「いや、私ビールはちょっと…」
「そうなんだ、じゃあチューハイにする? 歩きながら飲もうよ」
「じゃあ、甘いのにします」
こんなとき、カイトと同じビールが飲めたら、気が合うなとか、一緒にいて楽しいなとか思ってもらえたかもしれないのにと、ヒナコはビールを拒絶した自分が嫌になる。無理してでも飲めばよかったのに、カイトと一緒に帰るというシチュエーションにのぼせ上がった頭は思考力が低下していた。
「付き合ってくれてありがとね。料理運んでて、お客さんがおいしそうに飲んだり食べたりしてるの見てるとさ、本当は自分もそっち側に行きたいのにって思って、その反動でこうやってビール飲みながら帰ったりするんだよね」
意外だな、とヒナコは思った。
カイトなら「これからちょっと飲もうよ」と声をかければ友達の数人くらいすぐ集まってくれそうだし、なんなら彼女に連絡したらいいのにと、ヒナコは想像上で勝手にやさぐれる。
ヒナコたちはオフィス街にあるイタリアンダイニングでアルバイトをしていた。カイトがスタッフにも常連客にも一目置かれる存在であることは、年下のヒナコの目から見ても明らかだった。
「ビール、一口もらってもいいですか?」
「いいけど。苦手なんじゃないの?」
「ビール飲めたら、カイトさんともっと仲良くなれますか?」
アルコール3%のチューハイふた口が、こんなに勇気をくれるとは思わなかった。
「ビールが飲めなくても、仲良くなれるよ。まだ電車あるの?」
「もう帰れません、なんて嘘です。0時過ぎまで電車ありますから」
「じゃあその終電まで、ここで話そうか」
「カイトさんは帰れるんですか?」
「大丈夫だよ、俺はどうにでもなるから」
「私がどうにかしてもいいですか?」
カイトは笑って「女の子がそんなこと言っちゃダメだよ」と、ヒナコの顔を覗き込んだ。細くなった優しい目と大きな口が、今、目の前にある。
一口もらって飲んだビールはやっぱり苦い。でもこの味は一生忘れられない、と思った。ヒナコは試しにカイトのシャツの裾を握ってみた。二人のいる世界はすでに変わっていた。