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足るを知る#42
隣の芝は青く見える、とはよく聞く話だ。
芝生は青々と光り輝いて、植えられた木々はぐんぐんと育っているように見える。
実際に我が家のお隣の家は、芝生が青々としている。
非常に手入れされたお庭で、野菜園もあって、砂利の小径があり、夏になるとバーベキューをしている。
お肉が焼ける良い匂いを嗅いでいると、「ままー!ぼくもやきにくたべたいぃ!」と子供たちが叫ぶ。
わがままを言うでない!ほら!おうちにあるもので我慢しなさい!
なんてことは言わないが、実際、あるものでどうにしかするしかないのだ。
というか、周りを見なければいま目の前にあるものは、決して悪くはないはず。
誰かにとっては、ものすごく良い、羨ましい環境にいるのかもしれない。
お隣さんの庭にはない倉庫や木々、花壇といったものが我が家にはあるわけだ。
それをお隣さんもまたいいな、と思っているかもしれない。
わたしの父はよく、「足るを知る」という言葉を口に出した。
「足ると知る者は富む」とは、老子の道徳教(どうとくきょう)の一説。
古代中国の戦国時代の思想家・哲学者である老子が書いたとされる書物で、「知足者富」と表記する。
父はまさにこの言葉を体現しているような人だと思う。
「満足することを知っている人は、たとえ貧しくても心は満ち足りている」「既に十分満足であることを知っている」という意味で、父自身は物欲がなく物よりも心の財産を大切にする人である。
「足る」とは「十分であること」や「満ち足りている」「豊かである」という意味で、「富む」とは「財産がある」だけでなく「豊富である」という意味を持つ。
わたしの父がその言葉を口に出すときには、
「いま自分の手の中にあるものをしっかりと見てごらん。こんなにたくさんのものを持っているよ、それはあなたの心を豊かで幸せにしてくれるものじゃないのだろうか」
という意味合いがあったと思う。
つい人の持っているものを「いいなぁ」と思うことがあるかもしれない。
同じものを持っているのに、相手の方がより良いもののように見えることもある。
しかし、冷静になって考えてみれば、自分が持っているものは多い。
忘れているだけ、または気づいていないのかもしれない。
わたしの場合、誰かと比べるときには傲慢になっているときもあるように思う。
足るを知る、という言葉は謙虚さを持て、という父の叱責の意味もあったのかもしれない。
相手と持っているものを張り合ったり、落ち込んだりしなくても、それを知ることができれば満ち足りた気分になる。
自分にない状況を悲観的に捉えずに、自分に必要なものや本来のあり方を理解することで人生はより豊かになる。
「足るを知る」
自分自身を理解すること、そして努力していくことで自分の弱い心に打ち勝つことができるのではないだろうか。