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音楽を生活に援用する

これまで社会の制度やルール、慣習がどう音楽文化に影響しているかを考えてきて、それはミクロな視点でもマクロな視点でも深く結びついていて、自由な創作とは名ばかりで、全ての音楽は誰かが作り上げたシステムの中で、否が応でもそれに従わざるを得ない状況で、新しい音楽を作ることの無意味さを噛み締めつつも、実は音楽創作そのものを実生活の中で生かす手があるのではないかと思考を転換して考えてみている。

社会の中で作り上げられた音楽。既存の音楽要素である拍子にしても音程にしても、それは自然発生的にというよりは人為的に作られた社会の中で必要な形として表れているわけだが、それをもう一度生活に戻してみたい。にわとりあっての卵が更にひよこになってにわとりに戻る(?)というサイクルとは別に、それが人間によって食べられたり、多種多様な卵料理としてアレンジされていくような感じで、社会の中で作られた音楽創作上のきまりや慣習、もしくは技術といったものを一旦別の皿にのせてみて、それが一旦なんだったのか、全く別の角度から見てみるのはどうか。

という発想で、これまでソナタ形式を生活の中で実践したり対位法を援用して山の風景を立体的に眺めて楽しんだりということを個人でにんまりしながら試したりしているのだが、新たにオープンフォームというのを試してみたらどうかと思った。これは先日のキャビキュリアカデミーで山田麗子さんがレクチャーの中で「この問いには特に正解はありません」とおっしゃったことがきっかけで、どうしても授業で生徒という構造上立場で話を聞くと、先生が答えを持っていると信じてしまうけれども、問いを投げかける、特にそれに対して一つの答えを提供しないというのは、音楽創作のオープンフォームのようなものだなと思った。

近作では作品が一つの形で固定されないような形、例えばフラグメントの順番を演奏家自身が決めたり、どこからでも演奏できるようなフォームを試したりしているが、これを生活の中で実践するとなるとどうなるか。そういえば、若かりし頃にこれからお付き合いする相手と「契約」のような「わたしたちは今日からカップルになりましょう」という約束事をどの程度の期間回避して、「付き合うか」を試したことがあったけど、何かの形を決めずにふんわりした関係性を保つというのは、結構チャレンジングだし、面白いことだと思っている。人はとかく形を求めがちで、グレーであり続けるには実際筋力が必要だ。グレーなものをグレーなままオープンにしておくと、さっと立ち上がりたい時に立ち上がれる反射神経がつくような気がしていて、社会の中でのオープンフォームが浸透してグレーであることが許容されるようになればと思うと同時に、日常的に思考がどこへでもアクセスできるようにわたしも日々筋力をつけたいと思う今日この頃であります。

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わたなべゆきこ / 作曲家
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