ノイズって美しくない?のレスポンス
さっきょく塾【2018年12月課題】
《ノイズって美しくない?》
に対するレスポンス書いてみました。
少し前に「空耳の科学」という本を読みました。それによると科学的にみる「知覚する音」と、「実際鳴っている音」は違うようなんですね。生活の中で私たちの耳と脳は、自動的に音を聞き分けて、都合の良いところだけを取り出して、後は想像で補うことでそれを認識していると(タモリの空耳アワーが有名ですよね)。私も一つ一つの音も耳が違ったら異なる認識になるんじゃないか、と長く考えていたので合点がいったわけです。
脳が音を認識する上でまず根本的に忘れてはいけないことは、私たちが音を聞く体験は生死と直結したものであるということだと思います。日々の危険を察知するために音を聞き身体が動く、これが耳の本来の機能です。
音楽上は楽音の反義語として、もしくは異物として扱われることも多いノイズですが、実際の生活の中で聞いている多くの音は噪音であり、私たちは異なるノイズを日々聞き分けて生きていると思うんですね。
例えば子供が背後でいたずらしている音、なんていうのは、母親は無意識のうちに(物凄く繊細に)聞き分けていると思うんですよ。車が何メートル先から来るなぁ、とか、外で少しだけ雨降ってるなぁ、とか、よく考えてみれば物凄く複雑で繊細な耳の使い方をしていると思います。音楽上使う耳より、日常で使う耳は多方向に開いていると思うんです。
少し別の角度から見ていきます。従来考えられていた遺伝学の外側で働いている力、その仕組みを「エピジェネティクス」というそうです(「エピ」は外側とか離れてという意味で、「ジェネティクス」は遺伝学)。そちらの分野によると、DNAが環境や生活習慣によって変化するっていうことが近年の研究でも明らかになっています。もしそれが真実だとすると四季の変化が多い日本で人が聞く「雨」の音と、ヨーロッパでしとしと降る「雨」に対する欧州人の耳の感受性って同じじゃないよなってこれは感覚的にもそう思うんです。そういう意味で災害の多い日本に暮らす、わたしたちの耳は自然に密着している、敏感に聞いてるんじゃないと思ったりするわけです。
産業革命以降地域間の移動が可能になることで、その部分での地域差は小さくなった可能性や、ルッソロの「騒音芸術」から100年経った今「騒音」事情は変わっているかもしれないけど、例えばブルネイの熱帯雨林がある地域で幼少期を過ごした作曲家リザ・リムと、信州の山中で成長した私の耳は根本的に違う可能性って科学的にあり得る話だなぁ、と思ったわけです。
日常の中で使われる耳の状態、これって音を聞くっていうことを根本的に考えるための勉強になることが、私の場合多くあります。それこそポストケージ的発想かもしれないけれど、音楽の中で音楽を考えるより、外に出てみる。そして耳と対話してみる。それが今の私が思う「ノイズ・噪音」を考えるための一つの手立てのような気がしています。
※リザ・リムはオーストラリア出身の女性作曲家。森下周子さんの師匠でもあります。ホームページはこちら