山根明季子に〇〇について聞いてみた(4)
この15年とこの先の15年
――私にとって一番象徴的だったのは、2006年の第75回日本音楽コンクールで水玉コレクション No. 1を発表された時で、日本の現代音楽シーンが揺れた!感覚があったんですよ。女性作曲家が賞を取った、ということであれば、原田敬子さんが一位、斉木由美さんが二位、三位が菱沼尚子さんだった1993年もそうだったんだけど、山根さんのときは何か「新たな時代が来た!」という感じがして。
同時期に小出稚子さんが出てきて、もう物凄くポップなテーマで、カラフルな音楽を書き始めた。1993年にあった女性作曲家台頭の波とは、また違うものだったと思うんです。
その見せ方も含め、「あぁ、こういう生き方があったか」って多くの女性作曲家が感じたんじゃないかと。そしてそれは男性作曲家にも諮らず影響があったと思っています。まだ30代半ばで、自分の人生を客観的に見るのは難しいと思うんだけど、この15年振り返って、どうだったか、何が起こったのか、ご本人に聞いてみたいと思います。
あぁ、まず、このような分析に、私自身すごく励まされました。小出さんの作品にはシンパシーも強くて、ずっと刺激を受け続けていますね。
この15年・・・15年前って私は、周りのことも後先も考える余裕もなくて生きていることに必死でした。思春期から20代前半か半ばくらいまで、離人感というか、自分が生きていていいのかわからないような、最後の手段として音を書いていたような感じでした。
ネット黎明期でしょ。外と繋がる機会を探そう、コンクールはきっと世界が拡がるんだ、と思って、でも通っていた大学では当時は外部のコンクールに肯定的ではなかったんですね。そんな時に元夫となる川島素晴先生に出会った。私のしていることを励ましてくれ、それでコンクールに向けて曲を書いていたんだけど、作曲の最後の方になって「あれ、これ書きたいものと違うんじゃないか?もっとこうした方がいいんじゃないか」って書法的なアイデアが急にはっきり浮かんだんです。途中で全部書き直そうとしたけれど締切まで時間も無く、先生に「せっかくここまで書いたんだから」と後押しされてエントリーしたのが、最初の「水玉コレクション」だったんです。
――あぁ、それが日コンの「水玉コレクション No. 1」?
そうそう。だから先生がいなければ破棄していただろうし、そもそも当時コンクールに向けて「よく」書き上げられたか、わからない。変更しようとしていたアイデアに書き換えていたら、多分それは審査員多数の日コンには通らないようなものになっていただろう、と思うんです。そのアイデアというのが、後のNo. 4とかNo. 6になっていくんですけどね。
No. 1は、初演時も、内部奏法に対して演奏の拒否があり、どうしようかという時に、「できる」とソリストを稲垣聡さんが務めてくださったり。そういった周りの力とサポート、タイミングが色々に重なっての上演でした。演奏家、審査の先生や聴いてくれた人、報道や記事にしてくれた人など、決して自分一人ではなく周りの力に押し上げられた、そういうデビューだった。
私自身は子供を育てる年くらいまで、生き辛くて、何とも繋がれる感覚がなくて、当時はそういう破壊のエネルギーで創作に向かっていたところがありました。今だから言えますが。自分も死んでみんな死ね!みたいな。どうしようもないよね、本当、周りに掬い上げられた。
――それは強烈ですね。わたしたち、最初に出会ったのは確かその頃ですよね。
わたなべさんの作品、最初に聴いた「語彙集(※中江俊夫の詩によるソプラノとギターのための)」強く頭に残ってる。2003年の秋吉台の夏だよね。そこで出会えたこと、秋吉台での経験は私の人生にとって大切で衝撃的な出来事でした。細胞が入れ替わったみたいで帰宅後は親の前で大泣きしたの。そこから各地に仲間を得て視点が広がって、その後に繋がります。
――それって日本音コンの確か二年くらい前で、多分山根さんが一番苦しんでいた頃かもしれないですね。わたし、その時のことをよく覚えてるんだけど、確か湯浅先生の公開レッスンで山根さんが作品を出してらして、それは響きとしてとても明るいものだったと記憶してるんです。
いや、あの頃の作品はタナトスでしたね、弦楽オーケストラの「我儘」という作品。衝動としては、凄くネガティブなエネルギーから創作していたと思います。ずっと自分以外の価値観に合わせてがんばって生きてきた結果、どうしたら良いかわからなくなってました。その叫びよね。
――表面上明るく装っていたけど、どこか抑圧されていたと。苦しみの果てに生まれた「水玉コレクション No. 1」から15年、今はどういう状況にあると思いますか?
仲間がいます。本質のところを理解しようとしてくれたり、寄り添ってくれたり、楽しんでくれる人がいてくれることは、本当に救いです。いま生きているこの世界と繋がるための回路、の作り方が少しずつわかってきた感じです。だから今は、少しずつ私が生み出すものも誰かの救いになったり、誰かの喜びになったり、別に私が生み出すものに限らずね、そうなるにはどうしたらいいかって考えられるって、15年前と比べて状況的な変化としては、これが大きいと思います。
――若い世代の作曲家からの支持も増えたんじゃないですか。
そうですね、若い世代の作曲家は、人や音楽を鋭く見ているし、私の方が刺激を受けています。目を輝かせて喋る姿を見ると、泣きそうになるし、良いものをいっぱい持っている人がたくさんいる。とても素敵だと思う。
――音楽上の変革って一曲でぱっと変わるっていうより、段々とフォロワーが増えることで、時代が変わっていく印象があるんですよね。山根さんが15年前に感じていた絶望であるとか苦しみを、音楽という見える形に変換して、それが公の舞台で認められたことが、同じような感受性を持ったより若い作曲家にとっての救いになったんじゃないかって思います。
あぁ、ここは、そういうものを受け止めてくれる可能性を持つ有難いフィールドですよね。意識的に、もっと音を解放していきたいなっていうのは、今もまだ凄く思うんですよ。
――これまでの15年で山根さんがやってきたことって、そういった意味で若い作曲家にとっても大きな影響があったと思います。そしてこれからの15年、どうやっていきたい、どうなりたい、というビジョンがあったら聞かせてもらえますか。
「作曲家はこうあるべき」という形に捉われていた部分がどこかあったんだけど、最近はそうではなくて興味が向かうものがあったら、しっかりはみ出していこうとしています。その方が結果的に作曲にもポジティブに影響するかなって。そうそう、アクティブでありたいというのがあって、身体が動くうちは、色んなことをしに行ったり、聞いたり見たりね、体感したいなって、そういうことも考えます。お婆さんになってもコツコツ音符は書けるとしたら、今だからこそ、しておくべきことってなんだろうって。
あと、これも前から言っていることなんだけど「場を作りたい」っていうのがあります。それこそ、作曲作品としては年に2、3曲とかマイペースにやりつつ、そういったことを試行錯誤して形にしていきたいと考えています。
――場を作るって言うのは具体的には?
楽譜を書くだけでは充分に受容されないし何も変わらない、と思ったんです。そのことに自分自身が疲弊してきている感覚があって。自分が出したことを受け止められたり、自分も世界を受け止めるには、書く以前に土壌が必要だな、と。ただ作品を書いて演奏してもらうことでは、少なくとも今は、豊かに本質的な部分のやりとりができないって感じたんです。そのためにこうやって対話をしたりだとか、「場」を作って人と人との繋がり方の部分から考えていく・・・音の在り方をね、そういうことを模索しています。
――疲弊するって感覚的にわかるような気がします。10代からずっと作曲してきて、ずっと走り続けてきたと思うんです。「わかってほしい」ってずっと全力でやってきて、そこに結果として評価もついて来たし、世間から見ても立派に「作曲家」になった。それでも全然わかってもらえない、こんなにやってきてもこれだけしか伝わらない、その状況に疲弊してしまう部分もありますよね。
わたなべさんもそうなのね。
世間一人一人の個々人の感覚と、西洋芸術音楽の大きな体系の価値観との間に、ずれはあるはずなんです。ただ最近は「わかってほしい」ってだけじゃなくて、最近は相手のことも理解したいって思うようになったんです。この曲ってもっとこんなに素敵なのに!って思っていても、なかなか考えるようには受け取られないし、伝わらない。でもそういう疲弊ではなくて、なんかこう、違いをフラットに楽しめるような、健全な循環や環境を作り出していきたいなぁと思う。
――山根さんが言う「キラキラドローン」や「一音の中に入りこむ」って、それは所謂通常の音楽の聴き方からは遠いかもしれないんだけど、だからこそ、続けてほしい、って思うんですよね。誰に対しても食べやすいもの、じゃなくて、ピンポイントでも深く共感されるものって、守るべき存在だよな、と。ただでさえ、マイノリティが生きづらい世の中で、人はより深く繋がれる何かを求めていると思うんです。
「一音の中に入り込む」で思い出したんだけど、最近震えたんです!ラ・モンテ・ヤング(La Monte Young)さんも、全く同じような発言をしていたことを知って。とても大好きな作曲家である彼も「持続を聞き続けることで一音の中に入り込む」と話していて、「同じことを言っている人間がいる!」って物凄く感動したんです。
――あ!そうなんですね。ここに共感者いた、みたいな!
そうそうそう。ラ・モンテ・ヤングさんのドリームハウスみたいに、「場」を作りたいっていうビジョンはあるんですよね。共鳴してくれる仲間がいたらぜひいつでも連絡してほしいです。どういうかたちにするのがいいか日々考えをめぐらせています。
――続けていくことで、時代や国境を越えて共感者が見つかることがあるんですよね。だからこそ続けていかなければいけないんだな、と強く思います。今日は2時間に渡るインタビュー、ありがとうございました。これからの創造活動応援しています!
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ー山根明季子イベント情報ー
次の新作初演は、8月10日に京都芸術センターであります。京都のアンサンブル・ロゼッタの皆さんの演奏で、タイトルは「カワイイ^_−☆」です。この催しに際しては作品公募も行われていて、今回のテーマは「枠の無い音楽」で締め切りが5月10日でした。アンサンブルの皆さんは今後も様々なテーマで公募、作曲家との出会いを行っていくとのことなので、ぜひ、興味のある方はチェックしてみてください。
ここ数年フィールドレコーディングしているものをシングルトラックとして少しずつ公開しています。もともとゲームセンターやパチンコの音の持続の質感が気になり、携帯録音でメモしたり作曲の参考にしていたのを、機材を変えて採集し公開しました。普段耳を閉じられたり無いものとされるこの轟音、並べて聴くと持続の差異に知覚が開かれて面白いです。これから増やしていく予定で、全尺WEB上で聴けます。
「Videogame Arcade Ambient」他。
昨年、若尾裕さんと行ったソーシャルインスタレーション「ハーモニーの部屋」の記録10時間を、時間圧縮した実験音楽「THE FOLDED TIME: 1/30 2018/6/3/10:00-20:00」のCDを制作しリリースしました。演奏はイヴェント参加の皆さん、音響落晃子さん、若尾裕さんのテキストを収録しています。
若手作曲家のプラットフォームになるような場の提供を目指しています。一緒にシーンを盛り上げていきましょう。活動を応援したい方、ぜひサポートお願いします!