山根明季子に〇〇について聞いてみた(3)
作曲家という職業
――大きな賞を取ったら委嘱が来て、それでご飯が食べられるようになる。若い頃って漠然とこう考えていたような気がするんです。それで、まずコンクールに出さなきゃ、賞歴がないとダメなんだって。今でも少なからず、そういった風潮ってあると思うんだけど、実際その先行投資が実を結ぶんだろうかって思うんです。若手が馬車馬のように走らされて消費され、何かの形になる前に腐ってしまうっていうことはないんでしょうか。
消費的に感じることはあるよね。クラシック音楽の作曲家は日本で職業として自立していないと考えます。本当に純粋に作曲だけでは・・・。楽譜を書いても音にするのに演奏家が必要で、演奏家だって生活があり、公演の場所やオーガナイズ、など経済構造的にそもそも効率よく儲けが出る音楽ではないから。
今は通信環境も発達しているから、場所で語るのはナンセンスかもしれないけれど、ヨーロッパではもっと市民権がありますよね。日本ではやりようによっては無理ではない、という狭い部分にある感触。作風・思想とニーズがぴったり合致し続ける必要がある。ニーズと言っても個人レベルのニーズは助成金などに頼ることが殆どだから、もっと大きなところの、ニーズ。
そこではやはり、芸術の視点で優れた、強い作品、より多くの人を魅了できる作品が求められる音楽としてありますよね。でも音楽って大きい価値観から見た優劣だけでなく多様であることにも豊かさと面白さがあるわけだよね。多様な作風・思想にもそれぞれに小さな需要があるけれど、それがマイノリティであるほど経済的な面では回らない、ということが起こるよね。
――山根さんって端から見ると職業作曲家が成り立ってるイメージです。
収入としては委嘱料と再演・放送・出版などに伴う印税とがあります。実際多くの委嘱をお受けした時はそれだけで生活ができるくらい。でも、私の場合ひたすら作るということに疲弊があって、その勢いのまま応えていくことは出来なかった。一作一作書いて上演して受け取られるまでのプロセスを充分に消化しきれていない感触があって、もっとじっくりやりたくて、自分が作曲に一番打ち込めるペースと環境を作ることが、専業作曲家ってことよりも私にとって優先事項でした。
「作曲家ってこうでなければならない」と縛られないで、音楽同様、作曲家としての生き方そのものをより多様に考えて、その人にとってベストな創作環境を整えることはサバイブのひとつの在り方かな。
――なるほど。ある程度自分のやりたい方向性が見つかっていけば良いと思うんですが、先の見えない状況下で志半ばでやめていく人も少なからずいると思うんですよね。淘汰されていくって言ったらそれまでなんだけど、、もし教職なり他の安定した職がある上での創作だったら、精神的には負担が軽いだろうな、とは想像するんですよね。
そうですね。これからの世代の皆に何が必要なのか、私たちにできることはあるのか、それは何なのかって対話していくことが必要なのかなって。自分よりも若い作曲家を守っていけなければ、未来はないもんね。中堅世代も自分のことで精一杯というのが現状だと思うので、そのあたりの事情や問題点をもっとシェアして把握する機会をつくりませんか。
――例えば、10代の若い作曲家が、今の山根さんの活動を見て「あぁ、私も作曲家になりたい」って夢見るとしますよね。そのために、まず賞レースから入って「良く書けてる楽譜」を書いて…そういうプロセス踏まなきゃいけない、って考えてしまう人もいると思うんです。でもそれでね、その先が「それでも食べていけない」だったら、辛すぎるなって思ったんです。どうやったら、若い作曲家に夢を与え続けられるんだろうって。
それだったら、好きな音楽をどんどん書いていった方が良いと思うんです。
ああ、それは同感。好きっていう感覚はその人にしかない人間の神秘だと思ってる。個人的には、コンクールでね、物凄い炸裂してる作品があったとしたら、私はそういうものを選びたいって思うんですよ、複数審査員システムで一次で落ちちゃったとしても。だから、結果的にもし選ばれなかったとしても、どんどん突き抜けていくのがいいって思う。
私たちの時代は、まだネット社会が家庭に普及して間もない時期で、コンクールが外と繋がる大きな機会だったんですよね。でも今は、ウェブ上で作品を公開することができたり、インターネットが強い影響力を持つようになってきている。既存のシステムが立ち行かなくなってきていて、色々なものの在り方の多様さや、その持続性について、今もう一度考える必要があると思うんです。
社会と音楽
――以前少しお伺いしたことがあるんだけど、ルイージ・ルッソロが産業革命後に発表した「騒音芸術」の定義と、山根さんの音楽にはどこか共通点があるような気がするんです。「騒音音楽」では、産業革命時に沸き上がった近代社会への期待が、機械愛そして騒音に結び付いた、と理解しているんだけど、それって今に置き換えるとね、どこか山根さんの言う資本主義社会への慈しみと重なる部分があるんじゃないかなって。どちらも、時代の文化背景と、とてもダイレクトに繋がっていますよね。
作品が時代を反映しているっていうのはその通りだと思うんだけど、意識的にそうしたというより、感覚的なものですね。わたしは、生まれ持った肉体を通して感じとったものしか表現できないので、今ここで生きていることが、音楽に影響していると言えると思います。
でもね、「騒音芸術」っていうのは、どちらかというと希望に満ちていたじゃないですか、これから変わっていくであろう未来への。でもわたしの場合は真逆、絶望から始まっています。「資本主義社会」の末端への。人間の欲求っていうのが効率性のもとに管理された状態にあって、外側は整ったふりをしているけれど、内側は破綻してめちゃくちゃだったり、現代社会って建前と本音、虚構と現実が複雑に入り乱れて重なっている状態だと思うんです。そういう中で見えない部分、見ようとしていない部分を照らしたい、そこを掬いあげたいっていう気持ちがあるんです。よくクレーンゲームでガラス越しにぐちゃっと詰め込まれた景品にシンパシーを抱くんですけど。
――芸術ってそもそも社会と合わせ鏡になっていると思うんです。美しいものをショーケースの中で愛でるだけじゃなくて、社会の構造に対して多面的なアスペクトを提示することも一つ大きな役割ですよね。その意味で、アートの分野では社会的、政治的な作品も多く作られているのに対して、ここ何十年現代音楽は、アカデミズムの中での評価基準が優勢で、多面的な視点がなかったように感じるんです。50年前にあったフルクサスの運動が、今世界的に当時とはまた違った形でリバイバルしているのは、そういった意味合いもあると思うんですよね。例えば、ジョン・ケージがWater Walkを演奏したのが1960年、そして今欧州にで人気があるSimon Steen-Andersen(シモン・スティン=アナ―セン)がRun Time Errorを書いたのが2009年、その間およそ50年です。
――そういった意味で、山根さんが今また社会に対して感じていることを音楽を通して表現されるっていうのは、とても時代に即していると思うんです。ポリティカルな作曲家としては、以前東京音楽計画でプログラミングされていたヨハネス・クライドラーも同じようなアスペクトですよね。
思想の元を辿っていけば「作曲家」であるだけで政治的だとも言えちゃいますよね。社会に関して言えば社会的な発言、社会的な作曲家、なんて別枠で語られますが、人って生きているだけで社会的だし、それに対してなんのメッセージも持論もないのは、今ある世界のシステムに合意してそれを前に進めていくことだと考えます。身体的な作曲家、とか、生物的な作曲家、とか別段言われたりはしないのにね。私の場合は、社会の中で埋もれているものに光を当てたい、という感じですね。もともとの衝動は「なんでこういう音がこの世界にないんだろう?」なんだけどね。
――横文字で見るジャパニーズカルチャーって、伝統芸能、お能とか、もしくはクール・ジャパン、アニメーションとかをイメージすると思うんです。西洋から見た日本、エキゾティズムが根底にある。
でも山根さんは、外側からぱっと見た時に覆い隠されていて見つけ出せない、日本の弱さ、であるとか、鬱々とした部分にフューチャーしている。個人的には、そこがとても面白いと思いました。住んでいるからこそ見いだせる視点だし、その知覚的過敏さが羨ましいなって。
私が一番共感するのは、表舞台は華やかなのに実は全て虚構という日本社会の構造なんです。他の国に居るときはそれを感じないんですよ。一見華やかっていうのが私にとっては重要で、みんなが笑顔でいるような、ちょっと日本のバラエティ番組みたいな、、、キッチュな質ね、華やかさの奥に闇とか欲望とか努力とか、色んなものが渦巻いているような世界に興味が向かうんです。
――以前、こういう日本の風景を見たことがあって。電車に乗って外を見ていたら、真っ暗な空間にね、学習塾の看板とソープランドの看板が並んで浮かんで見えたんです。同じビルにね、子供の未来を作るための「塾」と、大人が一番子供に隠したいであろう「欲望」が隣り合っていて、とても象徴的な風景だなと思ったんですよ。凄く紙一重だなって。
うんうん、ありますよね。見せたくないところ、見て見ぬふりじゃなくて、批判でもなくて、照らしていくということなんです、私が音楽上でやっていることって。表面的に排除したって、また違う形でどこかに出てくるでしょ。批判だけじゃその先にはいけないなって。陰と陽があるとしてそのダメな方、隠したい方、その正体をもっと見つめたいって思うんです。
――近代社会の中で、人間の純粋な欲望って段々と見えにくくなっていると思うんです。食べたくないのに食べたり、笑いたくないのに笑ったりして、段々と本当の欲求って見えなくなっている。山根さんが言う、人間の欲望を認めてあげるって、音楽上でも凄く大事なキーワードで、本当に聞きたい音を聞くっていうことだと思うんですよ。究極までお腹を空かせて、それで何を食べたいか考える、みたいに「感覚を研ぎ澄ませていくことで、自分が聞きたい音を探ってみる」その姿勢に、現代に生きる人間として共感できるなって。山根さんが一つ一つの音を自分の感性に従って作り出す作業って、まさにそれの繰り返しなのかもしれませんね。
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山根明季子に〇〇についてきいてみた(4)に続きます。更新は5月15日です。
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