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わたしは『オンガク』を、いつかは知れるんだろうか。
どこから見る、音楽?
小さい頃に、学校で先生が言っていることがわからなかったり、みんなに投げかける質問への答えが的外れだったりする経験が、誰しもきっとあるのだろうと思う。少なくとも一回は。自分が出した答えが、周りとちがっていたっていいんだ、と思えるようになったのは、もう随分に大人になってからのことだ。思い返してみれば、ずっと「みんなみたいになりたい」と思っていたのだと思う。
小さな頃から音楽を学べる環境は、どう考えても社会の中で恵まれている。芸術、特に音楽を本格的にやろうと思える状況は、おそらく一般的ではない。音大を卒業した母のもとで育った私は、家にグランドピアノがあり、朝にはクラシック音楽が流れる環境で暮らしていた。それが普通だと思っていた。それが「普通ではない」と気づいたのは、小学校に上がってからだった。今では、習い事で毎日が埋まる田舎の小学生は珍しくないかもしれない。でも、当時の私にとって毎日ピアノを練習し、土日が音楽の習い事で埋まり、友達のようにどこかへ遊びに行くこともなく、それを淡々とこなしていく生活は、普通の友達とは違う世界線に自分がいることを、無意識のうちに認識させるには十分だった。
ピアノを弾き、合唱団で歌い、小学生のうちに作曲を学び始めた。中学では吹奏楽部、高校では軽音楽部という名のジャズオーケストラに所属し、音楽はわたしの世界のほとんどを占めていた。
さらに音楽をやる自分の世界が、どうやら友達のそれとは違うところにあると感じたのは、高校に入ってからだ。その時点では、まわりのほとんどの友人は、進路が決まっていなかった。受験校を決める段階になってようやく、「どこの大学の、どこの学部に入りたいか」といった話をし始める。偏差値がどうとか、模試の結果がA判定だとかB判定だとか、そんな話題が飛び交う。多くの人が経験するであろう、進路に悩む時間を、わたしは一度も過ごしたことがなかった。なぜなら、小学生のときにすでに自分の進路を決めていたからだ。
作曲をしているときは楽しかったし、自分の世界に没入できた。周りと違う意見を持っていても、気にする必要がない。幸い、やっていると褒めてもらえた。頭も言葉も足りず、何の取り柄もない私が、唯一できることが作曲なのだと思っていた。事実、小学生のころのテストの点数は威張れるものではなかった(今、小学生の娘に勉強を教えていても、あまり強く言えない立場だ)。かけ算を覚えるのはクラスで最後、逆上がりは永遠にできず、マラソン大会ではビリで、全学年に拍手で迎えられるような子どもだった。音楽は生きるよりどころだった。
さらに、音楽の趣味や音楽の部活に取り組むことで、周りの人より少しだけ音楽ができるという気持ちが、一種の優越感を生み出していた。そのまやかしの優越感が、「劣等生」だったわたしに一つの着ぐるみを着せてくれていた。そして、大学に入れば「音楽だけ」をできる環境が待っている。そう思うと、その日が待ち遠しかった。
そして2001年、小学生のころから計画していた「音楽大学」へ、私は入学した。
音楽大学に入ると、これまでやってきた普通の勉強はしなくてよくなった。毎日、授業「音楽」の日々が続く。音楽大学の授業はどれも楽しかった。でもそこで書いている自分の音楽が、どうやら周りとも違う気がした。大学一年の時だった。
当時の作品審査の成績は、まるで冴えなかった。肝いりで書いた作品に、思った以上にひどい点数がついたこともある(今、審査する側になって、学生たちの気持ちを思うと、やるせない)。大学で評価されるものと、自分が書いているもの、そして「いい」と思えるものとの間には、明らかな隔たりがあった。というより、そもそも「いい」と思えるものがどこにもなかった。
評価されるものを書くこともできず、これまで大事にしてきた居場所を失ったわたしは、「音楽のフィールドではやっていけないのかもしれない」と思った。ただ、不思議とそこまで悲観的ではなかった。というのも、その頃には、音楽から派生して、もっと広い《アート》と呼ばれる分野に少しずつ光を見出していたからだ。オンガクの人と話しているより、アートの人と話している時のほうが、自分が自分でいられるような気がした。だからもう、「自分の知らない、かつては知っていた『音楽』をやるのはやめよう」と思った。そう決めたら、気持ちは驚くほどすっきりした。音楽を作ることではなく、「『音楽を作ること』を作ること」に考えをシフトさせた。みんなが作ったり、発表したりするための枠組みをどう作るか、考え始めたのだ。
音楽文化政策を学びに行ったオーストリアで出会った人たちに、ゆっくりと脳みそをほぐしてもらいながら、偶然、今も音楽を作ることを諦めずにいるが、今もなお、わたしは一歩外からこの世界を見ている気がする。
音楽とオンガク
前置きが長くなってしまったけれど、音楽について考えるとき、そこにはいつも、小学生の頃の「みんなと同じ答えを出せなかった小さな自分」がいる。どうしたら、みんなと一緒にできるんだろう――そう思っていた自分が。
音楽をやれば、みんなと一緒になれるんじゃないか。そう思って音楽大学に入り、さらに留学までしたけれど、その感覚は結局変わらなかった。
今、自分の活動について説明するとき、言葉に詰まる。「(ごにょごにょ)現代音楽の作曲とか、コンサートのオーガナイズとかをやっています」と言う。嘘ではないけれど、「現代音楽」という言葉にはどうしても「ゲンダイオンガク」というイメージがついて回り、どうもしっくりこない。
わたしが普段やっていることは、十中八九、現代音楽の文脈上にあるものだ。でも、日本で一般に「現代音楽」とされているフィールドには、わたしの音楽はない。みんなが期待するような音楽を、わたしは書けない。またしても、わたしは先生の質問に明後日の方向で答えてしまっているのだ、と思う。
日本の音楽シーンの活性化について話すたびに、「そこにいない私が、活性化なんておこがましい」と思う。わたしのいない日本の現代音楽シーンは、きっと勝手に活性化していくだろうし、それは西洋でも同じことだ。どちらにも、わたしが思う音楽はない。あんなに拠り所にしていた、自分にとって大事な「音楽」。それはいつまで経っても「オンガク」であり続けている。わたしは何を聞いてきたのだろう。もしかしたら、何も聞けていなかったのかもしれない。
自分の存在意義として、時に心の盾となり、「それでもいいんだよ」と生きることを支えてくれた。それは、振り返ると幻想だった。「音楽」と書かれた仮面をかぶった空気のようなもので、そこには、実際のところ、何もなかったのかもしれない。
サッキョクカ×作曲家のふしぎ
わたしは自分のプロフィールに「作曲家」と書かずにいたいと思っている。それは、「作曲家」という言葉が、「ゲンダイオンガク」の感覚と似ていて、西洋の文脈における大作曲家のイメージをまとってしまうからだ。
でも、一体何をしている人なのか分からなくなってしまうので、仕方なく「作曲をしている」と書き、最近はそれに続けて、「自身の作品を『聞く哲学』とし、『思考音楽(Audio-Philosophy)』と名付けている。」と添えるようにしている(けれど、これは長ったらしく、ますます何をしているのか分からない)。苦肉の策で付け加えた文章だが、そもそもわたしは、自分の音楽を資本主義社会における経済価値のある「作品」や、売れるものだとは思っていない。だからこそ、それを何かを考える種として提示するしかない。
オンガクとは何なのか、全くよく分からない。ただ、物事を考えるときに、世の中で「音楽」と呼ばれているものをリサーチしたり、人々がそこから何を感じているのかを考えるのは、とてもおもしろい。いや、おもしろいというより、今の私には、そこにしか拠り所がないのかもしれない。
インターセクショナリティと創作
子どもが生まれてから、社会とジェンダーの関係についてぼんやりと考えることが増え、今はフェミニズムに興味を持ち、勉強している。特に、フェミニズムに関心を持つようになったのが日本ではなく海外だったこともあり、わたしはフェミニズムと広く関わる「インターセクショナリティ」という概念の中で、音楽創作を捉えようとしている。インターセクショナリティ(交差性)とは、個人に当てはまるさまざまな属性を単独ではなく、複合的に考える理論的枠組みのことだ。
専門家ではないので、フェミニズムについて何か的確なことを言えるわけではないけれど、音楽と同様に、フェミニズムも専門領域を超えて応用されていく可能性があると思う。だからこそ、音楽とインターセクショナリティを掛け合わせることで、新たな視点から物事を考えるために、この概念を使ってみたいと思っている。
わたしは、自分が長年続けてきた音楽が、どうやら「オンガク」であったらしいと気づいて以来、まるで赤の他人をずっとお腹に宿しているような感覚で、音楽の世界を眺めている。音楽はわたし自身でありながら、同時にとても遠い存在だ。そしてふと、音楽を音楽として手中に収め、自分ごととして捉えている人は、一体どれほどいるのだろうと考える。個人とは、さまざまな属性や状況が重なり合った存在だとすれば、「音楽をやっている」という一面だけで、その人が音楽の「どの」側面を理解し、何をしようとしているのかを知るよしもないし、判断もできない。もしかすると、音楽家ですら音楽を理解していないのかもしれない。
あらゆるアートの中の一分野として「音楽」を取り出してみると、それは他の芸術や、それを取り巻く社会と親和性があるようにも見える。一方で、音楽を——いまはなき幼い頃のわたしにとってのように——非一般的な家庭状況にある人々の特権的な趣味と捉えるならば、それは昨今アート業界で語られる「社会包摂」とは正反対の、より閉じられた限られたコミュニティのものとも思える。
小さなころから音楽に時間を、そして人生を捧げてきた私たち音楽家は、無意識のうちに、その特権的な環境の中で多くのものを排除してしまっているのかもしれない。そして、私たちには見えない「そちらの側」には、「オンガク」ではなく「おんがく」が存在する可能性も大いにある。むしろ、わたしはそちら側にこそ、可能性を感じる。もしかしたら、そこに自分の思う音楽が存在しているかもしれない。そんな、夢ともいえないほど微かな希望を頼りに、ぎりぎりのところで音楽を続ける気力を手放さずにいる。
手話とオンガク
2025年度の最大の課題——ここで言う「課題」は、学生の夏休みの課題のような意味で——は、手話と音楽の接点を見出すことだ。これは、ドイツにいた2015年ころから続いている、わたしにとっても長く、大きな宿題である。
はじめて、その課題を与えてくれたのは、友人のDésirée Hallからの誘いだった。彼女はフルーティストで(当時はまだアンサンブルとしては稼働していなかったが)、ensemble in transitionというグループを率いている。このアンサンブルは、手話詩と呼ばれるろう者による手話を用いた身体表現と、ソプラノ、フルート、チェロによる小さな演奏を融合させたもので、ドイツのフランクフルトを拠点に、ここ数年活動している。
日本でも、今年は東京2025デフリンピックが開催され、ろう文化がこれまで以上に身近なものになっている。
手話に触れ始めたときの感覚は、初めてフェミニズムについて知りたいと思ったときの感覚に似ていた。まるで広大な海原にいきなり放り出されたような気持ちだった。「こんな世界があったのか」と驚き、全く知らないことばかりでため息が出る。
「誰かのために音楽を書いていた」なんて、とても言えない。音楽は、非常に偏った、閉じたコミュニティの中に存在していた。特に、わたしは取り組んでいたのは西洋由来の現代音楽。わたしがその音楽を続ける意味は、欧米中心の評価基準に基づいて成り立っており、浅はかで空虚に感じられた。そんな音楽をやろうとするわたしの中に、わたし自身も存在していないのではないか──そう思った。
「音楽とは何なのだろう」と、ますます考えるようになった。世界には多様な人々がいるのに、わたしが思う、音楽がどこに「ない」と感じる感覚と同じように、あの人やこの人にとっての「音楽」も、どこにも存在してい「ない」のではないか。「ない」音楽はそのまま「ない」ままで、逆に、商業的に流通している音楽のように、普遍的に売り買いされる「ある」音楽だけが、過剰に社会の中で放散されていく。この矛盾は、いつ、どこで解消されるのだろうか。音楽とは何なんだろう。
ここだけの話、ensemble in transitionは秋に来日を予定している。わたしは彼らに新曲を書いて、その公演を行うことはほぼ決まりだ。でも、いまだ一音も書いていない。もう10年もこの宿題を引きずって、一音も書けていない。むしろ、この曲に音が必要かどうかも見極められていない。だって、手話詩をろう者の俳優が演じるだけでなく、この公演は聴者にもろう者にも向けられたものなのだ。音がない世界の中で、音楽をとらえることが、音楽にまみれてきたわたしには、一番難しい。音を聞かないように音楽を聞く。
ただ、もしかすると、これはこれまで「あった」音楽への挑戦なのかもしれない。「なかった」音楽を考えることは、わたしにとっての不在をどこかで埋めてくれるものであるかもしれない。それは、映画作家の牧原依里さんが言う、ろう者の音楽の中にあるかもしれないし、わたしの「ない」が、だれかの「ない」とどこか重なるのかもしれないし、重ならないのかもしれない。
とにかく、作曲が今までにない音を想像することだとしたら、「聞かない」「聞こえない」音楽を考えることも、「サッキョクカ」の役割なのかもしれない。今までで、一番難しい宿題。先生からの質問に正当な解答を出さなくてもよくなった今、わたしは何に、何を応えればいいのだろうか。
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![わたなべゆきこ / 作曲家](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/3976817/profile_99cdab776b541f101d57d71df7806f7b.jpg?width=600&crop=1:1,smart)