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みんなみんな、見てもらいたいよね。

先日、数名の子どもたち、数名のスタッフと一緒に、オンラインイベントを行なった。イベントといっても小規模で、1時間くらいで簡単なゲームなどをして遊ぶ内容。全体的にとてもアットホームな雰囲気で進んでいた。

途中で「お気に入りのものを持ってこよう」というお題を出したときのこと。このお題は難しいかな?困るかな?と思いながら出してみたところ、画面越しの子どもたちが照れたような、でもすごく嬉しそうな顔をしているのがわかった。

悩まずにすぐ持ってくる子もいれば、持ってくるのに少し時間がかかる子もいて。あれもいいな、これもいいな、と悩んでいたのかなぁ…

持ってきたものは本やコップ、タオルなど、ジャンルはみんなバラバラ。中には画面を移動させて、金魚の水槽の場所まで行ってくれた子もいた。お気に入りの物を画面に出すとき、「どういう所がお気に入りなの?」という質問に答えるとき、恥ずかしそうだけどすごく嬉しそうで、じんわりあたたかい気持ちになった。

他にも、「~ちゃん」と呼んだり、「~だね」と画面の向こうでの姿をひろって伝えると、その都度ほころぶ子どもの顔。ああ、見てもらいたいよね。きっと見てもらって嬉しいんだよね。

「見てもらえている」というのはきっとすごく嬉しいことなのだと思う。大勢としてではなく、一人として。名前を呼んでもらえたり、お気に入りの物をいいねぇと言ってもらえたり。たったそれだけの、ささいなことかもしれないけれど、それが子どもはすっごく嬉しいんだ。

そういえば幼稚園で働いていたときは、子どもたちが「先生!見て見て!」とよく言っていた。何かにチャレンジする時、何かが作れたとき、キラキラした誇らしげな顔でよく呼んでくれたっけ。

年齢が上がってくると、少しずつ「見て見て!」と言いにくくなるかもしれない。恥ずかしさもあるし、見てもらわなくてもしっかりしなきゃという思いが芽生えてくるのかな。

でも大きくなっても、きっと誰しも見てもらいたいという気持ちはあるんだよね。その他大勢じゃなく、一人の人として。たくさんいる人の中から、自分を見つけてもらいたい、見てもらいたいと思ってる。それはすごく自然な欲求なんだと思う。

子どもの「いま」をたくさん見てあげたいなぁ。その子の「いま」は、その瞬間にしかないんだから。表情がくるくる変わる子どもたち。その瞬間瞬間を大事にしたい。

「見てもらいたい」という気持ちは、大人になっても続く。根底にあるこの気持ちがなくなることは、たぶんないんじゃないかな。多かれ少なかれ、自分を見てもらいたい、見てもらえたら嬉しいという気持ちは、誰にでもあると思う。

私にもある。「注目されたい」ということじゃなく「私」として認識してもらいたい、いう感覚だ。SNS上でも「ゆっこさんの文章は…」と私の文章として読んでもらえることが、やはり嬉しかったりする。

阿部広太郎さんのこちらのnoteは、何度でも読み返したい大切な内容だ。

「一体感」は「一対一」があってこそ。私とあなたの関係。私はあなたを見ている。あなた、あなた、あなたとのたくさんのつながりが重なり合い、一体感になっていく。
「その他大勢」として扱われていると思った瞬間に、心はどんどんそこから離れていく。僕自身に心当たりがあるから、それはしたくない。

阿部さんはSNS上でも本当に一対一で接して下さるので、心の底から尊敬している。見てもらえたことで救われた人が、きっと他にもたくさんいると思う。

自分が見てもらえて嬉しいと感じるなら、今度は見る側、見つける側にもなりたい。そうしてお互いに、見たり、見てもらえたりを繰り返していくことができたなら、その連鎖を作っていくことができたなら、どんどんハッピーになる人が増えていくんじゃないか。

私も一対一の関係性を、子どもに対しても、大人に対しても、大切にしたい。

そんなわけで、今日はここまで。

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