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「成長」ってなんだろう。
「成長したい」と思ったり、誰かが言っているのをよく聞いたりする。ただ「成長する」って具体的にどういうことなんだろうか。
前に進むことなのか。
階段を昇ることなのか。
自分が何かしらの形で変化することなのか。
私が描いていた成長のイメージは、こんな感じ。この3つだけでも、だいぶ違う。これらを曖昧に書き分けていた気がする。
成長したい。
1年くらい前までは、現状の自分を否定したいための「成長したい」だった気がする。言い換えると、今の自分じゃダメだからもっと成長しなきゃ、かなぁ。
今はどうか。
妙な思い込みにより突き動かされる成長意欲は少なくなった気がする。でも成長したい、という気持ちは変わらずある。同じ「成長したい」でも中身が違うような気がして。ここを分解して考えたい。
今の自分でいたくないわけではない。
でもずっと今の自分でいたいわけでもない。
どっちだよ!とツッコミを入れたくなる。
そもそも「今の自分」ってなんだろう。
今も、過去も、未来も、自分は自分。それらに良い悪いや、優劣があるわけではなく。
「今の自分」って、その時点において完成されている自分なんじゃないか。うーん、完成されている、だとちょっとこわいな。なんだろう。たまたまできあがった自分、の方が近いかな。
自分というものは独立して成立しているわけではなく、環境や人との相互の関わり合いの中でつくられる。だから「今」どこにいるのか、何をしているのか、どのような人と関わっているのかで、今の自分は変わってくる。必然と偶然が半分ずつ組み合わさってできている。
と考えると、今の自分でいられることに、まず感謝の気持ちがわいてくる。自分を自分足らしめているものは、自分ではないのだから。
そう、だから今の自分でいられることはちゃんと受け止めたいし、「こういう自分に出会えてよかったね」って言いたい。という意味での「今の自分でいたくないわけではない」という気持ち。
だからもし、今の自分がずっとこのままだとしたら、「今いる場所から一歩も動かない」ことを選択した結果そうなる、ということになる。行く場所、やること、出会う人。今と何も変えない。そうなれば、自分も変わることはない。
それは嫌だなぁ。「今と何も変えない」という選択をするのは。(もちろん「変えない」と思ったとして、勝手に世界が変わっていくことはあるのだろうけど。)
どうして嫌だと思うか。「おもしろくなさそう」と思うからかな。自分がまだ知らない場所、コト、人。生きている間では知り尽くせないほど、たくさんある。知らなくていいやと決めてしまうのは、なんか嫌だな。
何の話だっけ。
そう「成長」の話。
ここまでの考えをまとめてみると、「成長したい」「成長したくない」という軸で考えるのは、なんだか違うような気がしてきた。
「そのつど、新しい自分に出会い直したい」という感じが近いかもしれない。
周りの環境との相互の関わり合いで、自分の感情や思考がどのように変化していくのか。それに出会いたい。アップデート。
アップデートされる前が悪い、という意味ではなく。そのときは一番いい自分。だけどそこから吸収して、もしくは社会の変化に合わせて、そのつどつどで一番いい自分にアップデートされていく。
そのアップデートを止めたくないという気持ちはあるんだなとわかった。
「書くことについて成長したい」という気持ちも、文章の技術を成長したい気持ちももちろんあるけれど、「アップデートされていく自分が書く文章がどうなるか、見てみたい」という気持ちが根底にあるかもなぁ。
文章って「その人」。自分自身のアップデートなしには、文章も成長していかないと思うんだ。
…と、意外と長くなってしまいました。
お付き合いいただき、ありがとうございました。