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きれいごとでも、未来に何かを描ける方が楽しい。

昨日の投稿を経て、名前を出すことにしました。すごくさりげなく。

ローマ字だとなんかそれっぽい。
自分の名前、特に名字の漢字があまり好きではないので、ローマ字にすると紛れてちょうどいいな。


名前を「ニックネーム」「本名」の並びで設定している方を以前お見かけして「あ、いいな」と思っていたので、そのようにしてみました。

名前を出したからって何かが変わるわけじゃないけれど。どこにいても私は私として、今思ったこと感じていることを、そのまま発していいんだと思えたら、中途半端な状態から抜けられた気がして、何となくスッキリした。

最近、今の自分や今の生活、一つひとつに満足するようになった。幸せは追い求めるものではなく、今すでにあるものだと。それを感じられるのか、感じられないかの違いなのだと、わかるようになってきた。

だから、「足るを知り」、小さなことに対してありがたいなぁとか、おいしいとか、うれしいとか、そう思えるようになってきている。

ただ、足るを知ったらその先。これでいいのだろうかと思うようにもなった。もっとやりたいこと、やるべきことがあるんじゃないのか。足るを知る、なんて言っていていいのかと、モヤモヤ。

前みたいに、今の自分を否定したり、責める気持ちからくるものではない。それは認めているし、受け止めている。だから、いいモヤモヤだと思っている。


少し前に、上司がこんなことを話していた。(私に対してじゃないけど、話しているのが聞こえてきた。)

「やりたいことや目標って考えると難しいから、”妄想”くらいがちょうどいいんじゃない」

って。

妄想ね、妄想…確かに。

実現可能かどうかは置いておいて、こうしたいとか、あれがやりたいとか、自分の中から湧き出てくるものが何かあるのか。

やっぱり私は頭でっかちで、「~すべき」「~しなきゃ」が先に出てくる。けれどたぶん、よくよく耳を澄ませてみたらありそうな気もするのだ。描きたい妄想が。


ちょっと話はそれるけど、私は何かを”残す”ということに価値を置いているのかもな、と気づいた。


子どもとの関わりでは、その子に思い出や経験を残したい。
NPOで働くことでは、仕組みや場を残したい。
書くことでは、心に思うことを言葉に残したい。
それを読んだ誰かの心に、残ったらいいな。


そういう意味では「私」という人間が残っていなくてもいい、と思っているのかも。たとえ私がいなくても、私がした「何か」が残っていたらそれでいい、と思ってる、ような気がする。


きれいごとなのかなぁ。本心では自分を認識してほしいと思っているんだろうか。
うーん、ここはもう少し考えよう。


「残る」「残す」ということを軸に、妄想を広げてみようか。

今日はとても脈絡なく、失礼しました。 




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