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距離感は一緒に決めたい
「寄り添う」という言葉があまり好きじゃない。
「あまり好きじゃない」なんて、中途半端な言葉だ。そんな中途半端な考えで書かない方がいいかもしれないけれど、自分の中でふと何かひっかかったので書いてみる。
~に寄り添う。
~に寄り添った○○を。
よく見かける言葉。もちろん悪い言葉じゃない。使うことを禁止したいわけでも、使っている人や場面を責めたいわけでもない。
でも少し何かひっかかる。
この言葉がどうにも「寄り添う」と言っている側の思いが大きすぎるような気がして。寄り添おうとしている相手の顔が、ちゃんと見えていないような気がして。
言葉を選ばずに言えば「してあげている感」が強いような気がするのだ。「相手に寄り添う」が「相手に寄り添ってあげている」というニュアンスを含んでいるような、暗に「強いもの」と「弱いもの」が存在していることを示しているような感じがしてしまって。
言葉の意味も調べてみた。
もたれかかるように、そばへ寄る。
からだをすり合わせるように、そばへ寄る。すぐ近くに寄る。寄りつく。
(こちらから引用)
端的に言えば「近くに行って、くっつくこと」らしい。
隣に行って励ます。相手の気持ちに共感する。これが「寄り添う」ということだ。大切な姿勢だと思う。でも何に引っかかってるんだろう。
「寄り添えば、相手の気持ちはわかる」という前提を感じてしまうのかもしれない。隣に行って、相手の気持ちをわかろうと寄り添えばわかるし、それができれば相手も救われるよ、と。
そんな簡単にわかるのだろうか。
いや、わからないと思う。
相手が何を感じているのか、どんな気持ちなのか、100%わかることは絶対にない。だから「寄り添おう」なのかもしれないけど、近くに来られたくないと思ってる人や、そう思う状況もあるかもしれない。
その人との適切な距離感を無視しての「寄り添おう」は、本当にその人にとって嬉しいこと、救われることなのだろうか。いやもちろん、救われる人もいるのだろうけど。
「わからないという前提で同じ側(がわ)に行ってみる」くらいがちょうどいいのかもな。
電車の端と端の席くらいな距離感から始めて、もう少し近くに寄って話す?どうする?と相手と話しながら決めるイメージ。こちらが一方的に側に寄って行くのではなく。
うん、それだ。
「この場所で、このくらいの距離で話そうよ」と一緒に決めたいんだ。
なんだかまとまりのない文章になってしまいましたが、書いたことで少し整理されました。
何かひっかかるという感覚、大切にしたいです。