阪神・淡路大震災の時、岩手の看護学生は…
平成7年1月17日、いつものように朝のニュース番組を見ながら朝ごはんを食べようとして手が止まった。ニュースに映し出されていたのは、どこかの国のがれきの山、山。いや、どこかの国じゃない、日本だ。
でも、関西には一度も行ったことがなく、一人の知人もいない私にとって、そこは日本人のいる外国。凄まじい破壊力によって街が壊れてしまったことは分かったが、どこか他人事だった。大変そうだなぁと思いながらもすぐにそのニュースは忘れて、いつもどおり看護実習先の病院へ向かった。
看護実習中は、各科の学生指導の看護師にその日の実習計画を見てもらい、受け持ち患者の検査の見学などを確認してもらってから始まる。ところがその日は、看護師も医師も出たり入ったり騒然としていて、なかなか計画が見てもらえない。仕方なくカルテを眺めたり患者さんとお喋りをして時間をつぶすが、結局見てもらえないまま昼になってしまった。そんなことは初めてだった。
それから数日間、同じような状態が続いた。その間看護学校の先生と病院側で協議があったらしく、一旦実習が中止になり、実習後にやるはずの授業が前倒しで行われることになった。病院ではその間に看護師と医師でチームを編成し、1週間ずつ交代で医療ボランティアとして派遣されていた。
2週間ほどして実習が再開された時には、実際に被災地に行った看護師から少し話を聞いたが、道路が寸断され行き着くことができずに戻ったチームもあったらしい。DMAT発足以前の話だ。スマートフォンはおろか携帯電話さえ普及していない。手探りでのボランティアは行くだけでも困難だったようだ。
そんな話を聞きながら私は不謹慎にもわくわくしていた。災害ボランティアなんて、カッコいい。今すぐ自分もチームに入って一緒に行きたいと思い、被災地で活躍する自分を夢見た。もともと開発途上国支援を志して看護学校に入ったので、被災地での医療活動が重なって見えた。
阪神・淡路大震災からずいぶん経ってから大阪に越してきた。それから数年後、地元岩手で震災があったが、東日本大震災は大阪にいたので経験していない。だから、本物の災害の怖さもその後の暮らしの大変さも、私には全く分からない。災害に備えて様々なグッズを準備したりはしているが、未だにどこか他人事だ。
看護学生として比較的生きた被災地の情報に接することのできたのにこの様では、被災した方々に怒られるかもしれない。けれど正直に言えば、これからも大災害を経験せずに一生を終えたい。日本にいる限りそれがかなわないならば、ただただ被災者の言葉に耳を傾け、物も心も備えておきたいと思う。
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