ボクサー

幕が開く。スポットライトが俺に当たり、一瞬目の前が真っ白になる。たくさんの観客が俺の方を見て、拍手をし、応援の言葉を歓声を、浴びせてくれる。いつもはここで俺のボルテージは一気に上がり、ハイになる。

 でも、今日は違う。

 リングに繋がる一本道。こんなにも歩きたくないと思った日はなかった。

「もっと自分を上げていけ、龍二!負けちまうぞ!」

 トレーナーが後ろから俺に声をかける。俺はミドル級チャンピオン。三度の防衛を果たしている。その俺が簡単に負けるわけにはいかない。

 俺がリングに上がると、歓声は一層大きくなり、何も知らない観客達の幸せそうな顔が見える。俺はいつものようにコーナーでトレーナーのアドバイスを聞く。ふと目線をずらすと、観客席の一番前に座っているプロモーターの顔が見える。俺が睨むと、そいつは急いで目線をずらしていた。

「もう始まっちまったんだ!もう仕方ないんだ!いつものように生きて帰ってこい!」

 トレーナーが大歓声にかき消されながらも、俺に声をかけてくれる。俺は黙ってうなずいた後、リングの中央を向く。中央では、リングアナが喋っている。俺は反対側のコーナーに目をやった。
 
今回の挑戦者、田山翔太。俺はアイツがアマチュアの時から知っている。・・・――――

 俺がプロになって少しして、徐々にランキングも上がってきたころ、そのときのスポンサーに飲みに連れて行ってもらったときのことだった。スポンサーは自分の知り合いでアマチュアで頑張ってる奴がいるといって、翔太を俺に紹介した。翔太は俺の大ファンだと言ってくれた。翔太はボクシングに対して、すごく情熱を持った奴で、俺達はその日、酒も入っていたことから、やたらと熱く語り合い、挙句の果てには、「次はリングで会おう!」なんて言って別れていた。
 そして一年後、俺はようやくその当時のチャンピオンを倒し、新チャンピオンとなった。新チャンピオンになった試合の後、俺の控室に突然、翔太が現れた。俺がチャンピオンに挑戦するからと、試合を見に来てくれていたのだ。そして、その時、翔太はプロテストに合格したということも教えてくれた。俺は自分の事のように喜んだ。
 その後、翔太とは連絡が取れていなかったが、アイツが頑張っているのは、知っていた。なぜなら、アイツは「期待の新星」として、連日スポーツ紙を賑わせていたからだ。連戦連勝、アイツは飛ぶ鳥を落とす勢いで、成績を伸ばしていっていた。俺はその記事を見る度に、嬉しかった。自分も負けてはいられないと、練習に励んだ。アイツの試合に花を贈ったこともあったんだ。
 
 そして翔太がプロデビューをして、もうすぐ一年が経とうとする頃、ついに、俺と翔太が試合をするという話が持ち上がった。メディアはこの記事を大きく取り上げた。メディアは「プロデビューしてから一年にも満たない若手がさっそくチャンピオンに挑戦するなんて、生意気だ。」といった形で世論を煽りたかったのだ、俺も若干早い気はしたが、翔太の勢いを見ていたので、さほど気にはしていなかった。
 記者会見の日。翔太と握手を交わした時、翔太は嬉しそうに目を輝かせながら、俺の方を見ていた。その目は、初めて会った時と何も変わっていなかった。俺はワクワクしていた。そして、その時も俺は、プロモーターやスポンサー達の目の奥の闇に気づいていなかった。

 昨日のことだった。試合前ということで、軽いスパーリングを終えた俺は、夕方、早めに家路についていた。家に帰る途中、駅前で俺は翔太を見かけた。翔太はなんだか浮かない顔をしていた。俺は明るく声をかけ、二人で少し離れたところにある公園まで歩いた。公園でベンチに座る俺達。翔太の顔は相変わらず曇っていた。

「なんかあったのか、翔太。明日の俺との試合で緊張してんのか?」

ずっと変わらない翔太の表情。重い空気が流れた。

「なんだよ。緊張するのはこっちのほうだぜ。お前、だいぶ調子いいらしいじゃん。俺の方が緊張す・・」
「龍二さん・・・あんたは知ってたんすか?」

 ついに、翔太が口を開いた。俺は困惑した。

「え?何を?」
「八百長の話。」

 翔太が少し辛そうな表情のあと、ポツリと答えた。俺は一瞬理解できなかった。

「八百長?・・・何が?・・どういうことだよ?」
「俺の今までの試合ですよ・・・。俺がプロになってから今までやってきた試合。全部仕組まれた結果。八百長だったんすよ。」

 俺は混乱して何も出てこなかった。

「今日、俺のジムにプロモーターの吉原さんが来てたんです。俺がいつもよりも早く着いて、会長に挨拶に行こうとしたら、会長の部屋から二人の声が聞こえたんです・・・。明日のスポンサー料は凄い・・・。今まで相手に負けさせるために払ってきた金が報われるって・・・。だから、俺は強くなって龍二さんに挑戦できるようになったんじゃないんすよ。俺はただ祀り上げられて、猿回しの猿として明日、リングに上がるんすよ・・・。こういう世界ってこんなもんなんすかね・・・。」

 俺は頭が熱くなるのを感じた。信じられなかった。気づけば、俺はジムに戻っていた。ジムの会長に、翔太から聞いた話を全て話し、真相を尋ねた。俺の会長も知らなかったらしく、目を丸くしていた。スタッフのみんなも驚いていた。俺は、周りの制止も聞かずに、今度は吉原の事務所に向かった。単刀直入に尋ねると、吉原は悪びれることなく、こう話した。

「今までのボクシング人気を知っているだろう?全盛期に比べると、目を覆いたくなるほどの落下ぶりだ。ここで誰か話題性のある奴が必要だったんだ。デビュー早々、数多の強豪を倒し、ついにはチャンピオンに挑戦する。しかし、チャンピオンはまっすぐな奴だから、こんな話に乗るわけがないと思った。だから、二人にはガチで試合をしてもらうことにした。もちろん翔太は負けるだろうが、そこで君の出番だ。チャンピオンが認めたと言えば、世論も認め始める。実力ならそれからいろんな相手で経験を積ませてつけていけばいい。まずは、世間がボクシングに目を向けるための起爆剤が必要なんだ!見てみろ。実際、世論も騒ぎ出してるじゃないか!」
「試合は中止だ!」
「それは無理だ。もう明日には試合なんだぞ!どれだけの人間が動いていると思ってるんだ!」
「でも、こんな試合・・・翔太だって望んじゃ・・・」
「じゃあ、いいだろう。世間に訴えればいい。しかしな、そんなことをすれば、翔太は世間のバッシングで二度とリングには上がれなくなるだろう。お前だって、チャンピオンったって、今まで人を殴ることしか能がなかった人間に対して、世間の目は冷てぇぞぉ。あることないこと引っ張り出すからなぁ。生きていくのは苦しくなるだろうなぁ。」

 俺は力が抜けていくのを感じた。ただ、怒りやなんやといった感情は残ったままだった。

「俺も猿回しの猿ってことかよ!」

 俺は裏拳で、隣にあったデカイ木彫りの熊の顔面を叩き割った。・・・――――――


 あの時、俺は翔太のために諦めたんじゃないだろう。たぶん、自分の生活のためを思って諦めたんだ。下積みから有名になって自由な生き方を手に入れようと思ってきた。でも、実際チャンピオンになり、防衛を果たしていくに連れて、積み上げていったモノが崩れていくのが余計に怖くなって、身動きが取れなくなっていた。

 聞こえるゴングの音。大きな歓声が渦巻く中、俺と翔太がリングの中央に出る。
 翔太が俺の眼をしっかりと見つめながら、激しくパンチを繰り出してくる。悲しいことに、俺は全てを見切ることができた。やはり、翔太はまだ早すぎた。ただ、翔太の拳には、今までのどの挑戦者よりも強い憎しみや、悔しさが混じっている。俺はそのままかわしつづけ、どうしても翔太にパンチを打つことができなかった。セコンドから、打ての指示が強く出ているのはわかっている。だけど、打てなかった。俺はこんな無意味な形で、翔太と戦いたくなかったんだ。
 徐々に俺を見つめる翔太の眼には、失望の色がにじんでくる。俺はその眼に耐えられなくなり、翔太にパンチを打ち始める。客席が盛り上がっているのがわかる。

俺はこんなに辛い試合をしたことがなかった。

実力からすれば、勝敗は明らかだ。俺は翔太に確実に勝てる。しかし、この状況で実力差を感じれば、これから先、翔太はボクシング自体に失望感を抱いて生きていくことになるだろう。勝つことも負けることもできない。その上、俺は保身のために、この試合を止めることができなかった。一発打つごとに、自分の心にナイフを突き立てている思いだった。
 翔太の足元が少しおぼつかなくなってくる。眼を腫らした翔太は、俺に倒れかかって来て、俺達はクリンチになる。すると突然、翔太は俺の耳元に口を近づけ何かを囁いた。

「ハァハァ・・・もう・・・・ない・・・。」
「え?」

 俺は一瞬自分の耳を疑った。「もう打たない。」翔太は確かにそう言った。レフェリーが俺達を引き離そうとする。しかし、簡単には離れなかった。すると、翔太は俺の耳元で再び囁いた。

「でも、俺は倒れないっすよ。絶対に・・・。」

 ようやく、レフェリーが俺と翔太を引き離した。ファイティングポーズをとる俺達。レフェリーの合図で、試合が再開される。翔太は宣言通り、全く打ってこない。周りは打ち合わない二人を見て、逆に一層騒ぎ出し、囃したてる。
 目の前の俺にしか聞こえない距離で、翔太はしきりに、「打ってこいよ。」と繰り返す。もうその眼には、失望の色しかなかった。俺は耐えられなくなり、二発パンチを浴びせる。足はふらついているが、翔太は持ちこたえた。そして、翔太はうわ言のように繰り返す。

「打ってこいよ。・・打ってこいよ。」

 一心に俺を見つめながら、繰り返す。俺は何もかも見透かされてる様で、またパンチを繰り出す。どれだけ浴びせても、翔太は倒れない。ただ、翔太の体にはくっきりと拳の跡が赤く腫れあがり、額や唇は切れ、血が噴き出していく。しかし、それでも翔太の眼は俺を見つめていた。

「俺は倒れないっすよ・・・絶対に倒れないっすよ!」

 満身創痍の体で、翔太は叫んでいた。レフェリーやセコンド、ついには試合放棄を恐れた吉原まで、翔太に打てと叫んでいた。

「俺は倒れねぇ・・・絶対に倒れねぇ・・。」

 その眼は重く、そして鋭く俺の心を貫く。

俺は逃げ出したかった。でも、下手な試合はできない。ついに耐えられなくなった俺は、泣きそうになりながら、翔太にパンチを浴びせる。最後には、ノーガードの翔太の顎を、俺の右アッパーがとらえた。ガクガク震える足で必死に踏みとどまろうとしていたが、意識が徐々になくなって、翔太は床に倒れむ。

高らかに鳴るゴング。スタッフが一斉に翔太を囲む。俺は呆然と立ち尽くしていた。レフェリーは俺の右手を上に持ち上げていたが、タンカーに乗せられて連れていかれる翔太を見て、俺は周りの人間を押しのけ、廊下を走り、翔太の元へ向かう。

「翔太・・・翔太。」

 翔太は少し首をこちらに向けると、うっすら眼を開く。

「・・龍二さん・・・すんま・・せん・・。あんな・・試合に・・しちまって・・。」

 俺は何も答えられずにいる。

「・・よかったら・・今度・・・俺の・・・スパーリングの相手・・してくれま・・せんか?」

 そう言うと、翔太は俺に微笑んだ。アザだらけで血まみれの顔で俺に微笑んでくれた。その時のアイツの眼は出会った時と同じで、明るく、とても澄んでいる。

「あぁ・・・もちろん。喜んで・・・。」

 俺はグローブがついたままの両手で、翔太の手を握りながら、答える。翔太は凄く嬉しそうに、精一杯の笑みをこぼしてくれる。俺はその顔を見た瞬間、涙が込み上げてきた。
 タンカーはそのまま翔太を運んで行ったが、俺はその場に立ち尽くしていた。眼からはボロボロと涙が流れてくる。

 謝るのは俺の方だ。一番大事なことが言えなかった。

リングからは、俺の四度目の防衛に湧く声が聞こえた。でもそれは、一人ぼっちの廊下の中で、俺には虚しく響いていた。俺は自分自身にすら勝てなかったんだから。

                                                                                              (終)


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