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写真家、田舎に住む Vol.4 コロナと田舎そして、ゼロの恐怖

世界が変わる

世界中の人たちが一斉に、今までと違う世界を経験中ですね。日本ではだいたいもう半年以上はこの状態が続いていますが、私もなくなってしまった仕事あり、取材撮影含めて行きたい場所に行けないこともあり、実家に帰省できなかったりと、影響は多少は受けています。

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(3月、外出自粛要請が始まった東京)

都会と田舎の違い

「3密」回避の生活もずいぶん続いていますが、その新しい生活様式がこれまでの生活に与える変化、影響は都会と田舎では全く違います。普通の生活の中で「密」になることはまずないので、普通に生活している分には、何ら以前と変わりません。外出が制限されていた期間でも、庭を駆け回れるし、近所を散歩したってだいたい誰にも会いません。

東京にも長く住んでいたので、もしこれが東京だったら本当に大変な生活だと都会に暮らす人たちの苦労や心労を想像できます。自宅の部屋は狭いし(私の部屋は狭かった)、そこに閉じこもることのストレス。気分転換に外に出ても誰かしら人には遭遇してしまうでしょう。

COVID-19の生活への影響が出始めてから色々と思い続けることはあります。その中のひとつ。今でも続く東京などの都会に人口が集中していると言うのは、やはり自然の流れに相反しているのだと言うこと。ウィルス蔓延に限らず、自然災害も、必ず起こり、人間としては受け入れるほかないもの。どうしたって犠牲は出るでしょう。でも本来のダメージや犠牲以上のものがあったとしたら、人間自身が作り上げた社会構造によって増幅されているのだと感じます。

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(近所を出歩いても密になりようがない…)

ドキドキしながら感染確認数ゼロの岩手県へ

5月に緊急事態宣言が解除され、岩手県を訪れることにしました。どうしても以前から必要であった取材のためで、今後また往来ができなくなる可能性もあるため、行ける状況の時に行くしかないと。7月終わりに初の感染確認が出るまでかなり長い間「ゼロ」だった岩手県。さすがに行っていいものか迷うし、他県ナンバーで走るのも居心地が悪い。ネットニュースなどに上がっていた「石を投げられる」や「嫌がらせの張り紙」はごくごく一部のものとはわかりつつ、それでも緊張はかなりのもの。いずれにしても万が一自分のせいで会った人が岩手1号になったら、この上なくヤバイ状況になることは必須。

何人かに「会いに行っていいか」尋ねると誰にも拒否されず。もちろん感染防止エチケットは常に施してお会いしてきました。実際に足を踏み入れ、またお会いした人たちと話をしていると、想像よりはピリピリしていることはありませんでした(これはどこの県でも、人の意識の差によりますが)。当初の心配は薄らいで行きましたが、それでも「第1号」の恐怖は岩手県では相当なものだったでしょう。

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(岩手沿岸部のすごい防潮堤)

そして会津地方。ついに感染確認

福島県は3つの地域に大きく分かれます。太平洋側(東側)の「浜通り」、真ん中の「中通り」、山奥(西側)の「会津」。わが故郷長野県が「北信」「中信」「南信」の3つに分かれるのと同じイメージです。「浜通り」「中通り」という名前は、外から来た人間にとっては非常に面白いネーミングだなと思っています。

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福島県の感染確認数は現在100人強。ところが、3つに分かれた「会津」だけは8月19日まで感染確認がゼロでした。福島県は北海道、岩手に次ぐ、全国3位の広さ。会津地方だけの面積でも約5,400㎢で東京都のおよそ2.5倍。愛知県や千葉県とほぼ同じで、もはや会津単独で県になってもおかしくない広さ(もちろん人口約26万人で県になるのは無理がありますが)。そして会津の人は自分が「福島」に住んでいるというより、「会津」に住んでいるという意識がとても強いです。その辺は歴史が関わってきますが、長くなるので割愛。会津の人は会津が1つの国であるような感覚であると言っても言い過ぎではないと思います。

この広さの地域でずっとゼロが続いていました。比較的安心といえばそうなのかもですが、やりづらい側面もあるのです。つまり岩手と同じパターンです。「会津1号には絶対になりたくない」。今では福島では感染者の数は限られているので、感染者が出れば必ず新聞テレビでも、市町村、職業、行動歴、が出ます。もし自分が感染者になったら、おそらく上記の情報で身元はわかってしまうと思っています。

「田舎の生活でよかった」という単純な話ではなかった

外出制限中の5月頃は、ほぼ日常生活に支障のないストレスのない田舎はやはり生きていくのに自然な場所だとしみじみ感じていました。しかし、時間が経つと、この「1号になりたくない」「感染したくない」という恐怖感も、田舎では相当強くなってきました。この状況下で日本ではバッシングや嫌がらせなどが出てきました。これは日本社会に続いてきた「ムラ社会」からずっと続いているものと私は思っています。

法律が整う前の「ムラ社会」では、しきたりに背くと村八分という制裁を受けます。実質そこでは生きていけないか、とてつもなく住みづらくなる。これは法律で罰せられるのと違います。これは悪いことでなく、しきたりとは基本的に人間の道徳に基づいているので、今の法律では罰せられないような類の道徳に反することができなくなるのです。人の道は近所の人から教わるといういい側面です。もちろん、全ての物事は表裏一体。「世間」が流されている方向性によって、罰せられる筋合いのないことでさえも罰せられてしまうということもあるのでしょう。今回のバッシングなどもそうだし、それを恐れる人たちもそう考えているはずです。「自分のところで(感染者)出たら、ここでは生きていけない」と。岩手でも会津でも耳にした言葉です。

現在は建前上法治国家となっていて、悪いことをすれば法律で罰せられることになっています。しかし、その現代でも社会的制裁は残っています。芸能人の不祥事への過剰な反応や過剰な謝罪にも現れています。自粛警察、マスク警察の話など聞くと、都会ですらずっとそういう意識が残っていると感じます。

なんで勝たなきゃいけないの?

「コロナに打ち勝とう!」とそこかしこでそんなこと言われてます。震災の時も「勝とう!」って散々言われてました。この言葉が出るたびため息出ます。なんで、勝たなきゃいけないんでしょうか?というか、絶対勝てない相手なのになぜ「人間に不可能はない」的な発言が称賛されているのか不思議でなりません。自然災害もウィルスも、人間の手でなくすことはできないものですよね。いずれまた必ず現れ、共存以外に道はない。現れても最低限幸せに生きて行ける社会を考えなければならないはずと思っています。

東日本大震災、原発事故、それ以降の数々の自然災害、そしてウィルスも経験してきました。本来の被害を、より大きくしたのはなんだったのか。人間のこれまでの行動に原因があったのでは?これだけ経験しても社会が変わるような気配を感じません。

己の限界を正しく知り、足るを知る。が大事だと改めて。

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(今日も陽が沈む)

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