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ソーダ水の泡

喫茶店に入るとたまにソーダ水を頼みます。
しゅわしゅわを見ながら考え事を思い返すのです。
ガラスの壁を伝ってやがて弾けて無くなる様が、
確かに現代の思想家のピーター・ストローソンが話してくれたまんまだなあ。
「思考は存在から離れられない」って事をね。
この泡たちがグラスの囲いの中でしか漂えない様に、
僕の思考も僕の存在から離れることはできないもんだなあ、と言うことを。

では、何故人は隔たりを覚えながらも関わることができるのか、いま、考え始めました。

もしかしたら、泡の形や大きさ、
液体そのものの種類を知る事によって
相手を想像の中で補完しているのかも知れません。
だとすると、僕は僕のソーダ水を知り尽くさなくてはいけないですね。
なら、僕のグラスはどれほどソーダ水で満たされて、
どんな色の液体で、そもそもグラスの形は如何なものか、時々考えてみようかな。

それを知った時には目の前の相手が持っているグラスのことも知れるかもしれない。
すなわちその人の存在をね。

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