「自分ごとにする」を巡るスタツア論
沖縄戦遺骨収容の活動を続ける友人が企画した、沖縄スタディーツアーに参加した。
本ツアーの事前資料で強調されていたのは、現在も続く”歴史的・構造的沖縄差別”を前に、実は責任/加害者性を持つ参加者が何を考えるのか、という点であった。別の主催者の方も、ツアーの目的の一つに「自分ごととして捉え、行動に移せるか」という話をされていた。
自分ごとにするという言葉がここで意味するところは、問題意識に共鳴することであろうか。加害者としての認識を持つようになることであろうか。それとも何か自分の行動が変わることであろうか。
自分の参加動機も、最初は、こうしたいわゆる社会問題を自分ごとにする余裕が、社会に出るに連れて無くなっていくことに、ある種の焦りを覚えていたからであった。
だが、”社会問題”を”自分ごとにする”という表現に、違和感を感じるのも事実である。それぞれ、何を指していて、それは達成され得るものなのだろうか。具体的な当事者の顔を思い浮かべることもできないまま、”社会課題”のone of themとして問題を客体化し、「知るべき/知りたい」と言ってしまう気持ちは、何に起因し、どれほどの意味を持つのか。
この文章では、まず沖縄スタディツアーを通して、社会問題を自分ごとにしようとした時に辿ったプロセスを振り返りつつ、”自分ごと化する”をめぐる今回のスタディーツアーの経験を、可能な範囲で一般化することを試みる。そして最後に、スタディーツアーとして再現性を持たせるにはどういう設計ができるのか、について考えたい。
事前に参考にした文献
『日本にとって沖縄とは何か』 (2016) 新崎盛暉
『犠牲のシステム 福島・沖縄』(2012) 高橋哲哉
『沖縄ノート』(1970) 大江健三郎
『証言・沖縄戦 : 戦場の光景』(1984) 石原昌家
『戦争を記憶する』 (2001) 藤原帰一
佐藤優の沖縄論の記事をいくつか
四日間の主な訪問先
①激戦地・前線基地
浦添城址・前田高地・嘉数高台公園・座喜味城址
②南部に撤退する日本軍と避難する住民とが入り交じる場所・壕
シムクガマ・沖縄陸軍病院南風原壕群20号・糸数アブチラガマ(病院壕分室)・南北之塔
③講話傾聴
護佐丸歴史資料図書館での中城村での戦争体験ヒアリング・平和運動家の知花昌一氏・県民投票の会の大学院生
④資料館見学
南風原文化センター・ひめゆり平和祈念資料館・沖縄県立平和祈念資料館
⑤その他
斎場御嶽(世界遺産でもある、王国最上の聖地)
国際通り周辺散策
前泊夜の、美栄橋付近の歓楽街
ホテルや夕飯時の、参加者間での議論
STEP 0→1 異なる視点の獲得
[事前資料からの引用]
今回のツアーは、事前の段階で既に、テーマと自分とのつながりを感じることができるようになっていた。
一つは主催側が事前に勉強会の機会を設定したり、資料や参考図書を綺麗にまとめており、琉球の歴史や本土との関係性の要点を把握できたこと。戦時に限らず、現在も基地があることで生じた事件・事故の数をみると、 “犠牲のシステム(※1)”に直接的な責任を負いながらそれを知らずに生活を送ることは、極端に言えば「死者を出す無知」とも言える(※2)。その話は、強い説得力と緊迫感と共に、今回のテーマと自分とのつながりを感じる最初の機会となった。
もう一つは、たまたま事前に主催者の友人と会った日が、参院選の近くだったこと。このツアーで向き合わされようとしている課題が、投票行動に付随する”自分ごと”として続いているという感覚を、議論しながら身近に理解できた。
そうして現地に入り込んだ時、”沖縄から見た本土への視点”という新しいメガネが自分にかけられたような感覚を覚えた。
平和祈念資料館の展示から伝わってくるものも、高校の修学旅行で来た時は”戦争そのものの悲惨さ”だけだったのが、”遥か昔から今もなお、本土と戦い続ける歴史がある”というメッセージを感じた。
沖縄県国体で国旗を燃やした知花昌一さんの振る舞いについての、「沖縄の人へも本土の人へも、そこまでの(深刻な)問題なんだと示し、伝えた」という解説も、初めは「溝を深めるやり方なのでは」と思っていたのが、「確かに一理あるなあ」という考えに変わった。
街で見かける沖縄名産品や聴こえる民謡、沖縄の方言でさえ、"もっと本土に近い沖縄"が存在した世界線を回避するために、そうした人の営みが意識的に見えやすいところに残されているように思えてきて、沖縄はこんなにも本土と違う場所だったのかと感じた。そしてその違いを今まで知らなかった自分に驚いた。
こうした認識の変化は、本で読むよりも、現地で見たものと自分の反応の往復から、明確に認識され強化されていくものだと感じた。
そして、一度変化してしまうと、それ以前の知らなかった状態に戻ることが難しいように思う。
『実際は何も悪いことをしていないときにあえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる、きれいごとだ』という大江の言葉が頭によぎりつつも、問題となっている事象を知り、自分の認識の変化を体感することは、自分ごと化のプロセスの一歩目として意味を持つように思う。
(※1) 高橋哲哉は犠牲のシステムを以下のように定式化している。
『犠牲のシステム 福島・沖縄』p.42
犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にするものの利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この義戦は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている
(※2)
こうした問題構造を持つ話は沖縄に限らない。
例えば先日、トランスジェンダーの活動家の方のお話を伺う機会があった。普段の言葉や振る舞いが(ex.「彼女いるの?」)、特定の人を存在しない前提で無意識に使われることで、その排除されている人たちにストレスを与え、特に中高生での高い自殺率につながっているという。「死者を出す無知」という点で同じ構造を持つように感じた。
STEP1→2 "異なる視点"の相対化
大江健三郎(1970) 『沖縄ノート』p.60
最悪のことは、言葉の書き手自身における多様性の欠如であり、つづいて最悪であるもうひとつのことは、対象の多様性をすくいとる能力の欠如である。
藤原帰一(2001)『戦争を記憶する』pp.46-47
同じ「国民国家」の中でも、地域、家族、民族によって、まるで違う「戦争」があったのではないか。(中略) この「有意義な過去」の選択をめぐるジレンマの中で、歴史家が明らかに語るべきだと合意できる「有意義な過去」が、戦争の記憶だった。
STEP1で述べた”メガネ”は、大江が『最悪』と述べる『自身における多様性の欠如』を補い、新しいものの見方を与えてくれるものとも言える。
だがその結果、もう一つの『最悪』、すなわち見るもの全てをそのメガネを通した文脈で認識してしまい、『対象の多様性をすくいとる能力の欠如』に、陥ることは案外多々ある。
ツアー中、そこに気づかせてくれる相手がいるか、出会いがあるか。
戦争証言を例に挙げると、今回のツアーでは、開戦早々占領された北部と、激戦区となった南部双方のお話を聴く機会があり、体験談を話す意思や覚悟の有無、慣れの度合い、どのような体験をしたかで、戦争証言には想像以上に幅があることを知った。
その中に、テニアン島にて製糖工場を営んでいた富農の娘さんのお話があった。戦前は日本兵に遊んでもらっていたというエピソードや、沖縄北部に戻った終戦後、貧しくもお肉の入った弁当が食べられていた話など、文字に書き起こされて世に出ることはないのだろうなと感じた。だが激戦でなくとも、死体も当時たくさん目にされ、マラリアで周りの方の多くが亡くなっている。そしてそれらの経験全て、紛れもないその方にとっての戦争体験である。
開戦後早々に占領され北部や中部では、捕虜としての収容所生活が”戦争体験”となるため、南部激戦区の凄惨さと比べ、普段「語る資格がない」と表に出てきづらいらしい。それは逆に言えば、誰かが本土との関係において、物語や意味づけへの勝手な期待を持つことで、黙殺してしまう個別の経験があるということでもある。
またそもそも今回、実は個々人が伝承を行う目的をそれぞれにお聞きした際も、こちらが本土からの構造的差別の話を出したとしても、それよりもただ戦争を繰り替えすことなく平和を願うからと、第一に言っていた人が多かった。この"ツアーの主眼となるメガネ"との噛み合わなさは、いったいこのツアーや活動は、誰のために、誰かの代弁者として行われているのか?といった問いを生じさせ、議論を行うきっかけにもなった。
ツアーのプログラムの中で、多様な立場に触れることはある程度設計できるかもしれない。だが、第三者によって意図されていない多様性に触れることや、それによりツアーの枠自体を外から俯瞰する機会は、現地を訪れ生の人と触れ合う中でしか開かれないのだろう。
誰かが用意した"社会問題"に対してではなく、そこで起きている現実としての出来事に対して、「私はこう感じる」と言える準備が整い始めること。それが自分ごと化のプロセスの二歩目と言える気がした。
STEP2→3 視点の“自分ごとにできなさ”の受容
大江健三郎(1970) 『沖縄ノート』 pp.16-17
沖縄の現状がつづくかぎり、公的に本土の日本人が、沖縄とそこに住む人間に対して免罪符を贖うことはできないし、まっとうな懺悔を行いうるということもない。沖縄からの拒絶の声とは、そのようなにせの免罪符はもとより、べったりと絡みついてくる懺悔の意思をもまた、峻拒するところの声である。そして、個人的にもまた僕は、自分が沖縄とそこに住む人間について何事かを書くたびに繰り返す錯誤について、意識しないではいられないのである。沖縄の、琉球処分以後の近代、現代史に限っても、沖縄とそこに住む人間とに対する本土の日本人の観察と批評の積み重ねには、まことに大量の、意識的、無意識的とを問わぬ恥知らずな歪曲と錯誤とがある。それは沖縄への差別であることにちがいはないが、それにも増して、日本人の最も厭らしい属性について自己宣伝するたぐいの、歪曲と錯誤である。
そうして次にたどり着くのは、自分ごとにできなさを抱えることだと感じた。
このツアーの途中から帰り道まで、個人的に二つの点で消化されないモヤモヤを感じていた。
一つは、結局具体的な顔を思い浮かべることのないまま、沖縄を語る言葉を持てなかった自分に対して、”結局私はこの問題に対してどう向きあればいいのか”という気持ち。
もう一つは、うちなーんちゅが持つ本土に対する強い気持ちに(怒りや憤りに限らず)触れる機会がツアー中にあれば、何か変わっていたのではないかという気持ち。
だが、見出しの大江の文章を読んだ時、「自分ごと化する」ことへの自分の期待に間違いがあったのだと腑に落ちた。すなわち、本文の文頭で述べていたような、"問題意識に共鳴すること"も、"加害者性を認識すること"も、それができるようになるというのは誤った期待であり、少なくともツアーの構造上叶い得ないものだったと気付いた。
そこをゴールにするのであれば、構造上、以下の三つの理由から元来ハッピーエンドは用意されていなかった。
一つは、「問題意識に共鳴する」の"問題意識"は、沖縄に本当に存在したのか、という視点。事前に共有された"問題意識"は、あくまでツアー側からの問題意識である。さらに、偶然にも事前に手にした参考図書の新崎・大江・高橋・そして友人の主催者は、内地の、さらに言えば東大卒の学者(とその卵)という共通の立場を持ち、沖縄出身の人はいなかったと、後から気づいた。
友人の主催者に活動の動機を尋ねると、「加害性を持つ本土の人間としての、自分への許せなさ」が根底にあると吐露していた。その動機からくる沖縄問題への問題意識は、うちなーんちゅの方々の気持ちと、近いことはあっても別のものである。無意識に同一視してしまうと、"(沖縄の人が持つ)強い気持ちに触れる機会"も、"具体的な(沖縄の人の)顔"を思い浮かべることも、そもそも対象が存在していなかった。
二つ目に、仮に問題意識が沖縄の中で存在したとしても、その気持ちに触れる機会は簡単に訪れないという視点。
主催者は、「突然来た内地の人に、いきなりそうした話を開示するわけがない。それこそが断絶ができている証拠だ」と言った。それはそうかもしれない。嫌な思いを掘り出してまで、何かを聞き出そうとするほどの強い想いはこちらにない。
だが断絶による対話の拒絶ともう一つの可能性として、「簡単に話したくないというほどの断絶があるわけではないが、別に参加者であるあなた方に対して、その本土との関係の話が一番したいわけではない」と状況もある。今回のツアーはそのパターンが多かったように思う。もちろん沖縄の人が理不尽を受けているという主張も、それが事実であろうことも理解できる。が、参加者の我々にその矛先を向けたり、共有しようという動機が、相手側にあると前提にすることはできない。
機会がなければ、共鳴も加害性の認識もできない。
最後の三つ目の理由は、仮に機会があったとしても、自分ごとにする(問題意識に共鳴する/加害性を認識する)のに必要な覚悟を、そもそも持ち合わせていたのかという視点。言語化は難しいが、今回のツアーで、その問題の抱える重さのようなものが想像以上だと感じた機会はたくさんあった。また主催者の友人の活動を聞いていると、確かに本土の第三者として沖縄を語る中で、色々な痛みを体で引き受けていそうな印象を持った。ここまで来ると、そもそも共鳴とはなんぞやという気持ちになる。
これら全ての状況を踏まえると、もし何かをすっきりと語れる状態に至っていたのであれば、それは”具体的な顔”という言葉で人に向き合おうという素振りを見せているようで、実は自分が分かりやすいポジションを取り、当事者とともに「こうである!」と主張できるようになりたかっただけと言えるかもしれない。『恥知らずな歪曲と錯誤』という、大江の言葉が刺さる。
スタディーツアーを通した、この"自分ごとにできなさ"のモヤモヤに、どのような意義を覚えるのかは人によるのだろう。私は以下のように考える。
そもそも個人の想いも、その総体としての”社会問題”それ自体も、実体はなく認識が集まったものであり、誰にも捉えることができず、"複雑"と表現される。この、現実は複雑だ、社会は多様だ、という当たり前を意識し続けることが、得てして難しい。もしその現実をわかりやすく語ると、そこで見過ごしてしまう人、切り捨ててしまう出来事を、無意識に生み続けることにつながる。
それを防ぎ乗り越える方法の一つが、複雑に絡む人、複雑な記憶の中に身を置くこと、そして語りの中に含まれる人との対面を一つ一つ重ねることだと思う。
無限に近い板挟みの中で、スラスラと語れないを経験を積み重ねた先には、自分を含む人間一般に対して、皆が誠実な姿勢で向かい合う、より良い世界が拡がると信じたい。
STEP3→? "その人の視点"の萌芽
ここまで「自分ごとにする」について書いてきて、もっと単純に、スタディーツアーを通して自分の行動が変わる道があることに気づいた。
それは、自分の世界の中に、今まで存在しなかった人からの視点が、当たり前のように存在するようになること。平たく言えば、自分の中に友達の視点が現れることである。
その視点は、スタディーツアー内で、「私が」「自分ごとにする」ために何か行動して得られるのではなく、「友達/関係者の目線」がいつのまにか獲得され、自然に「自分ごとになる」、受動的な経験である。
選挙にせよなんにせよ、自分の行動をまず直接変えるのは、利害関係を超えて、そこにいる友人に想いを馳せることだと、経験則として感じる。厳密に言えば、自分から「〜する」のではなく、自分の行動が、友達/.関係者の目線( 「〜はどう思うだろうな」という感覚)によって規定されるのである。
ここまできて今回参加したツアーの趣旨が、「いちゃりばちょーでー(出会えば皆きょうだい)」であったことを思い出した。分断を乗り越えるために、主催者側が至った結論である。
また、「4日でそうしたことに触れるのがそもそも無理で、今回はきっかけを作るに過ぎない」とも主催者は語った。
自分もこのツアーを通して、また次に沖縄に立ち寄る際に、泡盛を片手に一緒に語らえそうな方がたくさん増えた。彼ら彼女らは、距離が離れていても、自分が行動する際の行動に関与する。
「問題意識に共鳴すること」とも、「加害者としての認識を持つこと」とも違うアプローチからの、「自分ごとになる」である。
最後に、スタディーツアー設計論
沖縄問題に限らず、多くの身の回りの社会問題とされるものと、スタディーツアーの関係においても、以上の話と大方同じことが言えるのではないか。それは、「訪れることそれ自体にどんな意味があるのか」と問われた時に、「それでもある」という起点にできるのではないか。
以下、スタディーツアーという学び場の枠組みに、最低限の再現性を持たせるため、今回のツアーを通じて気づいたことを記す。
STEP1 異なる視点の獲得
・主催者の問題意識は、参加者が普段持つ意識へのアンチテーゼとして強くぶつけて良いと思う。ただ、解が設定された問いとして「知るべきだから教える」といった姿勢ではなく、解のない問いという前提で、「問いを持ち帰ってもらう」姿勢が望ましいのではないか。
・したがって、主催者側が、どうしてこの活動をしているのか、ツアーの開催意図など、個人的な想いや経験を伝える場があったほうが、参加者もそれを踏まえた上で自分なりの問いに立ち会うことができて、良いように思う。
・事前の資料や参考図書が、参加者同士の共通言語を持つことにもつながった。
・大きな問題を無理に外から語るプログラムではなく(今回でいうと外交問題など)、ともに現地に入り込んでいくプログラムとして設計されていたことは、ツアーの趣旨と合致していてよかった。
・もし立場を徹底し、活動の原点となる世の理不尽への憤りを他者と共有することを考えるならば、当事者の肉声が不可欠なのではないかと感じた。あるいは、その社会問題に伴う具体的な痛みや恐怖の一片に触れる機会があるとまた違うのではと感じた(今回でいうと、手続きをとって基地の中に足を踏み入れるなど)。
STEP2 "異なる視点"の相対化
・「STEP1で提供した視点」と別の視点を主催者がコンテンツとしてツアーに盛り込むと、焦点がぶれたり、限られた時間の中で他に優先順位が高いことがあったりしそうではある。なので、参加者間の素直な議論の中でアンチテーゼが立ち現れるような、プログラムの「ゆとり」を設計したり、参加者に問いをオープンにしているというスタンスを、初めから伝えておくと良いのではと思った。
・今回ツアーから外している立場の存在を、参加者に明示し、ツアー後の行動に結びつけることはできるような気がした(今回でいうと、省庁の担当の方と、お酒とともに語る機会など)。
STEP3 視点の“自分ごとにできなさ”の受容
・これまでの視点は誰かに教えられたり与えられるものベースであったのに対し、この"自分ごとにできなさ"は、自分で考え始めることで初めて出てくるものだと思う。だからこそ、人と人との関わりや、自分の考えを他人と交換し合う中で、獲得できるものだと感じた。
(それはその場で意見を共有できる存在の尊さに改めて思いを馳せる契機にもなり、またそれは簡単にでも何か感じたことを文章にしたためようとした動機にもなった。)
・ただ、そこで自分が考えた意見を率直に交換するためには、心理的安全が不可欠であり、どう、初めて会うメンバーでそうした場を作れるかについては、かなりの工夫が必要だと考える。
STEP ? "その人の視点"の萌芽
・現地の人と、"ほんとうの言葉"で語り合う機会を、いかに作れるか。