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半ば強制のボランティア活動(サッカーに憑りつかれて,国体他) 1
七年間いた某小学校時代生活に,初めの五年間のほとんどの土日はサッカーのクラブに費やしました。 六年目に入って取り仕切っていた大御所の元校長先生が引退して次々と教員が辞めていきました。
代わりに。 サッカーのクラブからずっと大人まで続けていた人や、あるいは地元の大学生など,サッカーを教えることが好きな好きな青年たちにバトンタッチすることにだんだんなっていきました。
名目上はボランティアですので。 報酬は形だけでした。要するにガソリン代とお昼を挟んだ時の昼食代ぐらいしか出ませんでした。 今から思えば,非常にブラックな組織だったと思います。
市のサッカー協会とサッカーを教える教室と,ごちゃまぜになっていて、メンバーもほぼ重なっていて,大きな行事があると動員がかかることがありました。 最もお大きな思い出は,わが県に国体がやってきてデモンストレーションですが全国から集まった少年サッカーチームの試合のを取り仕切ることでした。
自称高木ブー先生は?四十数年に一回のことだから。 国体に関わることはとても名誉だと言ってよろこんでいましたが,私は余分な仕事が増えて憂鬱でした。 そんな名誉はどうでもいいことでした。
実を言うと、私は初めから頭数には入ってなかったんです。 ところが私にやっぱりよく似た考えの人がいて,役員を辞退したので急遽推挙されたんですよね。 ですから、自称高木ブー先生よりも,一つ上の立場で,国体に関わることになります。
帽子とその時のロゴの入った服はまだどっかにとってあるのかもしれません。押入れから出てくるかもしれません。 メダルとかももらったんですが、どっか行ってしまいました。 恥ずかしくて付けられないカフスボタンとネクタイピンは取ってあります。
もう三十代だったと思いますが国体の役員といっても、実際の仕事は,テントの下にいるわけじゃなくて,サッカーですから、主審をやるんですよね。はっきり覚えてませんが、二試合から三試合やったと思います。
サッカーの主審というのはコートを斜めに自分の好きな方向で選手と同じぐらい走ります。たしか九月の初めだったと思いますので,ひと試合終わるごとに頭から水をかぶるとか,ポカリスエットなどの飲料をがぶ飲みして。 それでも一試合で二キロ体重が減るぐらいハードでしたね。
いくらデモンストレーションの少年サッカーの試合とは言っても,頭に国体と名が付く以上,ミスは許してもらえませんので,相当に気を遣いながら審判をやりましたね。 しかしながら主審は絶対なので,気持ちが良かったと言えば? まあ、そういうことになります。
これも市のサッカー協会なのか教育委員会なのか主催者がはよく覚えてないんですが,たしか夏休みに女子のサッカーの試合を市内で行うことがありました。
メンバーがそろわず見送る年が多かったりですが、メンバーが揃った年があって,参加したことがありました。 女子にサッカーを教えたのは、後にも先にもこれ一回でした。 やる気のある子が十六人揃いました。しかし、ベンチに入れるのは十五人だったので一人あぶれることになりました。
県営のグランドで,試合は行われ,あれよあれよと勝ち進み、決勝で負けましたが、銀メダルをもらって帰ってきました。私のメダルは十六人目でベンチに入れなかった子に渡したので手元にはありません。