【連作短編】はざまの街で #6 きのこ汁
「弟を捜してもらえませんか?」
志郎が庭の欅の落ち葉を掃いていると、背後から女の子の声がした。
振り返ると、七〜八歳くらいのおかっぱ頭の女の子が立っていた。
「お願いします。私の弟を捜してもらえませんか?」
女の子はもう一度、志郎を見上げてそう言った。
ツギハギだらけの粗末なえんじ色の着物を着ている。
志郎はしゃがみ込んで、女の子の目線に高さを合わせて話しかけた。
「お名前は?」
「愛子」
「愛子ちゃんの弟はこの街にいるの?」
その問いに、愛子は黙って頷いた。
「弟の名前は?」
「武」
この子が七〜八歳ということは、五〜六歳か、それ以下か。
「武くんとはどこではぐれたの?」
愛子は首を横に振った。
はぐれた訳じゃないのか。
はぐれた訳じゃないのに探している。まるでなぞなぞのような問題に、志郎は腕を組んで首を捻った。
とりあえず郁美の店に行こうと、志郎は愛子をシトロエンに乗せた。
シトロエンは郁美の店へと続く山道を走って行く。車窓に赤や黄色に色づいた葉が、流れては消えて行く。
愛子は座席から腰を上げ、食い入るように流れる景色を追っている。
その笑顔は幼い子供そのものだ。
「すごい!私、自動車乗ったの初めて!」
「しっかり掴まっててね、怪我しないように」
「うん!」
枯葉を巻き上げながら、いつもよりゆっくり車を走らせていると、突然愛子が「止めて!」と叫んだので、志郎は慌ててブレーキを踏んだ。
車が止まると愛子がドアを開けて森の中に走って行った。
「愛子ちゃん?」
志郎が後を追いかけると、愛子は老木の前で立ち止まり、指を指しながら「ヒラタケ!」と言った。
「きのこか。それ、食べられるの?」
「食べられるよ!」
そう言うと、愛子はヒラタケを採り始めた。
志郎は慌てて車に戻り、ビニール袋を持ってきた。
愛子はヒラタケを収穫し終わると、さらに森の奥へと進んでいく。藪をかき分けるのも手慣れたもので、志郎ははぐれないようにと必死について行った。
愛子が進んだ先には小さな沢があり、その脇に倒れたブナの老木があった。
「なめこ!」
倒木の日陰側に、茶色く光るなめこがびっしりと生えている。
志郎も夢中で収穫し、大きなビニール袋がふたつ、パンパンに膨れた。
「すごーい!どうしたの?これ」
ビニール袋の中の大量のキノコに郁美が感嘆の声を上げる。
「この愛子ちゃんがみつけたんだよ」
志郎は自分の後ろに隠れるようにして様子を伺っていた愛子を郁美の前に促した。
「愛子です。弟を捜してます」
「よろしくね、愛子ちゃん。弟くんとはどこかではぐれたの?」
郁美の問いにも、愛子はただ黙って首を振るだけだった。
郁美はふたりに席に座ってるように言って、志郎にはいつものコーヒー、愛子にはラムネを持ってきた。
「わぁ、ラムネ!お祭りみたい!」
愛子は嬉しそうにラムネ瓶を振って、中のビー玉を転がした。
その様子を見ながら、志郎はここまでの経緯を郁美に話した。
「愛子ちゃんはどこから来たの?」
郁美にそう問われて、愛子はラムネ瓶を胸の前に抱えたまましばらく考えたが、ひとこと、
「わかんない」
とだけ答えた。
「分からないのか。多分、私たちと一緒ね。生きていた時の記憶がない。これはなかなか難しいわね」
郁美がラムネを飲む愛子を見つめたまま呟く。その言葉を受けて志郎が、
「愛子ちゃんは多分七〜八歳だから、弟はもっと小さい子ってことだよね」
と言ったのを聞いて、カウンターの奥に座って黙って聞いていた来栖が、
「おまえらバカか」
とカウンターの椅子から降りて志郎のテーブルにやってきた。
「バカってなによ」
「いいか、この子のおかっぱ頭とボロい着物を見ろ。どう見たって戦時中か戦後くらいだろうが」
その言葉に、志郎と郁美が顔を見合わせて同時に「そうか」と肯く。
「それに、こんな小さい子が食べられるきのこを知ってるってことは、おそらく農村部の出だろう。しかも裕福じゃなかったんだろうな。山菜やきのこを採って食いつないでたはずだ」
志郎と郁美が黙って来栖の顔を見つめる。
「な、なんだよ。そうじゃないのかって言ってるんだよ」
「凄いなぁ、来栖さん。良くそこまでわかりますね」
「それくらい分かるだろうが。で、その弟だけどな。つい最近亡くなってこの街に来たとしたら」
来栖はそこで言葉を止めた。
その言葉を繋ぐように郁美が答える。
「今、80歳以上ってこと?」
「その通りだ」
愛子が亡くなった時から今まで、生まれ変わらずにどこにいたのかは分からない。だけどおそらく、その弟が亡くなるまで待っていたのだろう。
そして、弟は疲れを抱えてこの街にやってきている。
愛子には弟がやってきたのが分かったのだ。三人はそう結論づけた。
「ということはさ、来栖さん」
「なんだ?」
「僕のような役目の人が他にもいて、そのうちの誰かのところにいるってことだよね?」
「そうなるだろうな」
「来栖さんは、他に僕と同じ役目の人は知らないの?」
志郎にそう問われると、来栖は何かを思い出すように宙を眺めながら指を折り、
「四人知ってる」
と答えた。
「それじゃ、その人たちのところに行ってみようよ」
「え?これから?」
「そう」
「俺もか?」
「当たり前だよ。来栖さんがいなくて誰がその人たちのところに案内するんだよ」
「面倒くせえなぁ」
来栖はそう顔をしかめたが、愛子が自分をじっと何かをお願いするように見つめているのに気づいて、
「分かった分かった。よし、行くぞ」
と立ち上がった。
「行こう、愛子ちゃん」
「うん!」
「私はお留守番してるわね。このきのこで何か作ってるわ」
そう言う郁美に、志郎と来栖は軽く手を上げ入口のドアへと歩き出し、愛子は郁美に向き直って「ごちそうさまでした」と言って頭を下げると、ふたりを追いかけるようについていった。
そのパタパタと音を立てるような走り方が妙に懐かしい感じがして、自分には子供がいたのではないかと郁美は思った。
まずは商店街に向かってくれと来栖に言われ、志郎は車を走らせた。
愛子は後部座席で草履を脱ぎ、後ろの窓から去っていく景色を眺めている。
「万華鏡みたいだね」
確かに、紅葉の森が遠ざかる様は万華鏡のようだった。
「愛子ちゃん、万華鏡を持ってたのか?」
来栖の問いに、愛子は後ろを眺めたまま答える。
「私は持ってない。本家のユミちゃんが持ってたけど、一度しか見せてくれなかった」
「そうか」
来栖は前に向き直ると、前を見つめ、問わず語りに話し始めた。
「あの頃はさ、田舎の方に行けばこんな貧しい格好をした子供たちばかりだった。都会の子供は裕福かってぇと、そういう訳じゃねぇ。靴磨きに窃盗、まともに学校に通えない子供たちはごまんといた。GHQを見りゃ、逃げるかギブミーチョコレートだ。その脇にはパンパン、闇市にはヤクザ、警察はキリがねえから見て見ぬ振りを決め込んでやがった。その脇で親のいねぇ子供たちが腹空かせて死んでいく。二、三日して臭い出したらいつの間にか片付けられててな。ありゃどこに連れて行かれたんだろうな。見てらんなかったよ」
来栖さん、その時代に生きてたんじゃないの、という言葉を志郎は飲み込んだ。
そうに違いないことは明らかで、そして多分、まだ来栖自身は気がついていない。
来栖の記憶が戻ったらどうなるのか。
志郎は来栖がここからいなくなるのではないかと思った。
「よう、どうした?来栖ちゃん」
来栖について商店街を歩いていくと、ちょうど店先に出ていた肉屋の主人が声をかけてきた。
「直樹さん、久しぶり」
来栖は肉屋の主人を名前で呼んだ。それほど親しかったことを初めて知った。
肉屋の主人は中肉中背で、年の頃は五十代前半だろうか。片手に肉切り包丁、片手に研ぎ棒を持って優しそうに微笑んでいる。
その包丁を見て、愛子は志郎の後ろに咄嗟に隠れた。
「あんた!包丁持って外に出るんじゃないよ。怖がってるじゃないのさ」
店の中から肉屋の奥さんがコロッとした愛嬌のある顔を覗かせて叱る。
「ああ、ハハ、悪い悪い。で、どうした?コロッケを買いに来たって顔じゃねぇな」
そう当てられて、来栖は少し笑いながら直樹に訊ねた。
「直樹さんのところに、新しいお客さんは来てないかい?年は八十代だ」
その来栖の言葉に志郎が驚く。
「え?肉屋さんも僕と同じお役目なの?」
「ああ、そうだ」
来栖が振り向いて志郎の問いに答える。
「直樹さんはここいらじゃ古い方さ。俺が来る前からだからな」
「まぁ、みんな上がんなよ」
直樹はそう手招きすると、店の中に入って行った。
「それにしても、懐かしい格好のお嬢ちゃんだな」
直樹は愛子の頭を軽く撫でて微笑んだ。愛子はもう怖くないらしく、釣られて笑顔を見せた。
「みんなお茶で良いわよね。お嬢ちゃんはオレンジジュースね」
「ありがとう、慶子さん」
来栖がそう言ったので、肉屋の奥さんの名前が慶子だということを志郎は初めて知った。
慶子はちゃぶ台の周りに座った志郎たちの前に湯呑みを置いていく。
「愛子です。よろしくお願いします。弟を捜してます」
「あら、しっかりしたお嬢ちゃんね。よろしくね、愛子ちゃん」
「直樹さん、そういう訳なんだ」
それから来栖と志郎は、これまでの経緯を一通り直樹と慶子に話した。
「んー、そういう爺さんの話は聞いてねぇなぁ。この辺りを歩いているのも見てないしな」
「そうねぇ、新しい人が来たら、大概わかるもんだけどねぇ」
「すまねぇな、来栖ちゃん」
「いやいや、直樹さん、謝るこたぁねぇよ。もし何か分かったら教えてくれ」
「分かった」
「これ、コロッケ。揚げたてだから熱いけど、みんなで食べてちょうだい」
店先で志郎たちを見送る慶子が、来栖にコロッケが入った茶色い紙袋を渡した。
「ありがとう、慶子さん。遠慮なくいただくよ」
来栖がそう言うと、三人は商店街を歩き出した。二軒隣の店の前まで歩いて振り返ると、まだ肉屋の夫婦が後ろ姿を見送っていた。
「来栖さん、先に行ってて」
志郎はそう言うと、肉屋の前に走って引き返し、ふたりに訊いた。
「あのう、おふたりに記憶はあるんですか?そのう、生きていた時の」
志郎の問いに、直樹は慶子と少し顔を見合わせてから、
「あるよ」
と、にこやかに答えた。
「そう、私たちにはあるわ」
その返事に志郎の表情は綻んだ。
「ありがとうございます!」
肉屋の夫婦には生きていた時の記憶がある。だけどこの街でお役目を果たしている。ということは、来栖が記憶を取り戻しても、生まれ変わってこの街からいなくなることはない可能性がある。
そこまで考えてから、志郎はまた新たな疑問が浮かんだ。
生まれ変わらずにこの街にいるということは、来栖にとって幸せなことなのか?
「おーい、どうした志郎。早くしろ」
来栖の呼びかけに、立ち止まっていた志郎は我にかえり、小走りで二人に追いついた。
「あー、それ僕のコロッケ!」
シトロエンの助手席で二つ目のコロッケに手を付ける来栖に、志郎が運転席から声を上げる。
「お前は運転中だろうが。冷めちゃうと美味しさが落ちるからな。その前に食べてやってるの」
来栖はそう言うと、後部座席でコロッケを頬張る愛子に向かって、
「美味しいねぇ」
と甘い声を出して同意を求める。愛子は言葉に出す代わりに、口をもぐもぐさせながら、満面の笑みで首を何度も縦に振った。
「もう、大好物なのになあ」
「いつでも行けば貰えるだろうが」
「今食べたかったんだよ」
「なるほど、今を生きる。良い心がけだよ志郎くん!まぁ、死んでるけどな」
次の人の家は山の方の住宅街にあった。
行ってみると、庭で「お客さん」とバーベキューをしていたので、ここには来ていないとすぐに判り、志郎たちは挨拶をして、愛子の経緯を手短に話した。
「もし何か分かったら連絡してくれ」
来栖がそう言い、三人はその家を後にした。
その次も、その次の家も同じように「お客さん」がいた。
「どうやら、手詰まりってとこだな」
「そうですね」
愛子が不安そうに二人の顔を交互に見る。
「大丈夫だよ、愛子ちゃん。きっと見つかるから」
志郎はしゃがんで愛子に目線を合わせると、笑顔でそう言った。
「とりあえず、郁ちゃんの店に戻るか」
「あなたたち、お困りのようね」
「ミヤさん!」
郁美の店に戻るとミヤがいた。
茶色のスカートに白いシャツ、グレーで少し丈の長いカーディガンを羽織っている。今日は少しラフな感じに見えるが、ミヤが着ると上品な雰囲気を醸し出す。
「どうして俺たちが困ってるって知ってるんですか?」
来栖の問いに、ミヤが悪戯っぽい笑顔を見せながら、
「そりゃ分かるわよ。ピピピってきちゃうのよね」
と答える。
「凄いなぁ、ミヤさんは」
志郎がそう言って驚いた顔をすると、ミヤは手を振りながら笑った。
「冗談よ、冗談。直樹さんから連絡が来てね、何か知らないかって。その子が愛子ちゃんね」
ミヤが少し屈んで愛子を見つめる。
「愛子です。よろしくお願いします」
愛子は深々と頭を下げながら、そう挨拶した。
「本当、懐かしい髪型にお召し物ね。愛子ちゃんは確かに戦中か戦後の子ね」
「それで、ミヤさんは何か知ってるんですか?」
志郎の問いに、ミヤは黙って掌を上にして、奥の席に座っている男性を示した。
指名された男は慌てて立ち上がり、目を瞬かせながら、少し緊張したように話し出した。
「あ、ぼくは浜田と言います。歳は三十二、志郎さんと同じお役目をしていて、一週間前に武さんをお預かりしました」
「それじゃ、武さんは君のところにいるの?」
志郎がそう言うのと同時に、愛子が笑顔を見せる。
「あ、いや、あの、ごめんなさい、今は、ぼくの家にはいないんです」
「どういうこと?」
「あのですね、なんというか、その」
浜田が口籠る様子に、ミヤが助け舟を出した。
「どうやら生まれ変わりたくないようなのよ。ひとりになりたいって言うから、浜田くんが山小屋を教えたそうよ」
「はい、月光山の麓にある山小屋です。あそこなら薪ストーブはあるし、夜も寒くないと思って。釣りをしたり、きのこを採ったりして暮らしているようです。なんだか、お役目が果たせていなくて、すいません」
浜田が誰にというわけでもなく、全員に向かって頭を下げた。
「あら、気にしなくて良いのよ、浜田くん。人間同士にどちらが良いも悪いもないの。関係性があるだけよ。その人の事情もあるでしょう。あなたは一生懸命やっている。それで充分」
ミヤのその言葉に、浜田はもう一度頭を下げた。
「そういうわけよ。あなたたち、迎えに行って差し上げなさい」
「分かりました。よし、愛子ちゃん、行こう」
そう言って志郎は再び愛子と来栖と三人で店を出た。
シトロエンに乗り込もうとドアを開けた時、後ろから「ちょっと待って」というミヤの声がした。
志郎たちはミヤがこちらに歩いてくるのを待った。
「もし、武さんが月光山に登っているようなら、急いで後を追ってちょうだい」
真剣な目でそういうミヤの表情に少し気圧されながら、志郎は「はい」と答えて頷いた。
「とにかく、頂上に登らせてはダメ」
そう念を押すミヤに、今度は来栖が「分かりました」と答えて頭を下げた。
「愛子ちゃん、疲れてない?」
志郎が後部座席の愛子に声をかける。
「うん、大丈夫」
もうすぐ会えることが分かって、愛子は膝から下を上げたり下げたりしながら、その喜びを表している。
それを見ながら、助手席の来栖が微笑んだ。
「やっぱり子供が楽しそうにしてると、こっちまで嬉しくなるな」
「来栖さんもそんなこと言うんだね」
志郎の憎まれ口に、来栖は黙って軽くゲンコツをした。
「イテ!」
片手で叩かれた場所を押さえる志郎に来栖が問いかける。
「山に登らせるなって、ありゃどういう意味だろうな」
「そうだね。でも、大丈夫だと思う。小屋にいるような気がするんだ」
山小屋に着くと、月光山の向こうに太陽が沈もうとしていた。
薄暗くなった山小屋の前で、薪割りをしている老人の影が長く伸びている。
「武!」
愛子はそう叫ぶと、急いで車から降りて老人に駆け寄り、その足に抱きついた。
老人は斧を下ろし、突然のことに驚いて反応できずにいる。
志郎と来栖が車を降りてゆっくりと老人に近づいていく。
「武さんですね?」
志郎の問いに、武は黙って頷いた。
志郎は来栖と顔を見合わせながら、お互いに安心の笑顔を浮かべた。
「その子は愛子ちゃん。あなたのお姉さんですよ」
その言葉に愛子が上を向いて、武に自分の顔を見せた。
「姉ちゃん、本当に姉ちゃんか!?」
「姉ちゃんだよ、武」
武はひざまずき、愛子の両肩を掴んで、良く顔を見てから、もう一度「姉ちゃん」と言うと愛子を抱きしめ、あたりを憚らずに大声で泣き出した。
八十歳を過ぎた男が、孫かひ孫くらいの歳の姉を抱きしめて泣く。これもこのはざまの街ならではのことかもしれない。
志郎はこの街で役目を果たしていることを改めて嬉しく感じた。
「武さん、そろそろ行きましょうか。みんな待ってます」
武の涙が落ち着いてくるのを見計らって、来栖がそう声をかけた。
「待ってるって誰が?」
「あなたを心配している人たちですよ」
志郎が答える。
「今朝、愛子ちゃんが僕のところに、弟を捜してくださいって来たんです。それに協力してくれた人たち。それに浜田くんも心配してましたよ」
浜田という名前に、武は袖で涙を拭きながら立ち上がった。
「ああ、彼にはなんだか悪いことをしたな」
「武、郁美さんのお店でラムネもらおう!お祭りのラムネだよ!」
ラムネがお祭りの時にだけ飲める贅沢品だと思っている愛子が、武は不憫に感じて、寂しそうな笑顔で何度も頷いた。
「私たちが生まれたのは、山形県の山村です」
郁美がキッチンから出てきて、席についたのを見計らうように、武が話し出した。
武はペタッとした短髪で、頭頂部が少しハゲているが歳を考えれば普通だろう。小柄で木訥とした表情に深く刻まれた皺は、いかにも農村部の老人を思わせる。
「私が昭和11年生まれで、姉が5つ上なので昭和6年生まれ。姉が7歳で亡くなった時、私はまだ2歳でした。だから姉のことは覚えていません。一枚だけ残された家族写真で見ていただけです」
武の隣には椅子を並べて愛子が座り、武の手を握りながら足をぶらぶらさせている。
そのふたりを囲むようにみんなが座り、山形訛りが残る武の言葉を黙って待っている。
すっかり暗くなった店の外からは、虫たちの合唱が聞こえてくる。
親父は庄屋の出で、裕福に育ちましたが、次男だったので、結婚するとわずかな土地を与えられて家を出されました。
その土地だけでは足りないので、山間部の荒地の開墾にも入りました。
雪が解けるころから積もり出すまで、とにかく一生懸命働いたそうです。来る日もくる日も岩をどかして土を耕して。
そうやって少しずつ努力して、ようやく作物の収穫ができるようになった夏のある日、姉が私を守って亡くなりました。
その日はとにかく暑い日で、まだ2歳だった私は、木陰の大八車の上に寝かされていました。面倒を見ていなさいと言われた姉は、団扇で扇いだりしてくれてたそうです。
陽がだんだん登っていくと、大八車の上にも直接陽が当たるようになってきた。だけどその時には姉も疲れて寝てしまっていたんです。
親父とお袋が気がついた時には、姉の体は燃えるような暑さになっていたそうです。急いで病院に連れて行ったんですが、手遅れでした。今でいう熱中症です。
だけど、私の上には姉が置いてくれた菅笠や団扇で影が作ってあったので、大事には至らなかったそうです。
「あの頃は、みんな生きるのに必死だったのよね」
そこまで聞いてミヤが呟いた。
「はい、不幸な事故だったと思います。お袋はあんたが助かっただけでも不幸中の幸いだった。愛子に感謝しないとって、そればかり言っていましたが、親父は違いました」
武は愛子に視線を落とすと言葉をつないでいく。
「親父はあれから人が変わってしまったそうです。姉をずいぶん可愛がっていたそうですから、ショックだったんでしょう。人が変わったと言っても、酒やバクチということじゃなくて、ただ、心を開かないようになったってお袋は言ってました」
「よっぽどお辛かったのね」
「そうだと思います。私が成長しても、親父は全く目も合わせてくれませんでした。ただ黙々と、毎日畑に出ていく。その姿がどうも、私を責めているように感じてね。よくある話かもしれませんが、私はグレました。中学を卒業すると、悪い奴らのところに出入りするようになりましてね。ヤクザまではいかない、チンピラみたいなもんです」
そこまで言うと、武は腕をまくって自らの彫物をみんなに見せた。
毎日のように家の金を持ち出して、それを隠されるようになると、今度は米を持ち出して売って金にする。おかげで妹や弟が、親戚の家に米を借りに行かされたそうです。その泡銭はみんな遊びやバクチで消えました。
ある日、久しぶりに家に帰ると玄関に親父が立っていて、静かに言ったんです。勘当だって。
親父が私の目を見て話をしたのは、後にも先にもあの時だけです。
その日の夜行で、私は東京に出ました。
東京に出てもアテはなかったんですが、あの当時はあちこちに工事現場がありましたからね。働き手は募集してませんかって尋ねて歩きました。
その私の山形鈍り丸出しの言葉に、あんちゃん、山形の生まれかいって声をかけてくれたのが、その後にお世話になる大工の棟梁です。
働いて金が入るようになると、私は毎晩のように遊び歩きました。私の後に入ってきた後輩にも気前よく奢ったりしてね。もともと見栄っ張りなんでしょう。
何年か経って、棟梁からはそろそろ身を固めたらどうだなんて言われましたが、遊んでるから貯金が全くない。
そんな時に飲み屋で良く会う男に、良い稼ぎ話があるって誘われて、詐欺の片棒を担がされました。
そんな話だとは思わなかったからすぐにグループを抜けたかったんですが、そう簡単に抜けさせちゃくれない。
脅されながら詐欺を続けて、捕まった時にはホッとしました。
騙されて金をなくしたことで自殺した人もいるって警察の人に聞いてね、刑務所を出たら今度こそ真面目に働こうって思いましたが、世間はそう簡単じゃない。
結局、職を転々としながら、腰と膝を痛めて七十二で働けなくなりました。
年金もないから、あとは生活保護に頼って細々と生きてきました。
家族に迷惑をかけて、お世話になった棟梁も裏切って、詐欺で人を自殺に追い込んで、最後は皆さんの税金で生きながらえてきたんです。
私にはもう、生まれ変わる資格なんてないんです。
「大変な人生だったのね」
「いえ、自分が悪いんですから」
武はそう言うと俯いた。その頭を愛子が心配するように撫でる。
「で、でも」
一番端で話を聞いていた浜田が立ち上がったが、みんなの注目を集めて、急に緊張した顔になった。それでもなんとか話し出す。
「でも、ですよ、ここに来たということは、生まれ変わることを、その、許されてるってことじゃないんですか?」
「その通りよ」
ミヤが浜田の言葉を受けて、武に微笑みを向ける。
「だから、あなたは自信を持って生まれ変わって良いの」
ふたりの話を聞いても武は俯いたままで、店内に無言の時間が流れた。
「そうだ、みんな、きのこ汁食べない?」
沈黙を破ったのは郁美だった。
「わぁ、きのこ汁大好き!」
愛子の顔が綻ぶ。
「今朝、愛子ちゃんが採ってきたきのこで作ったのよ。志郎くん、手伝って」
みんなの前に、きのこがたっぷり入った汁が置かれていく。
「懐かしいなぁ、お袋がよく作ってくれた」
ようやく武が顔を上げ、きのこ汁を見て呟いた。
「愛子ちゃんのヒラタケとなめこに、うちにあった椎茸を足して、大根と油揚げも入れて、醤油で味付けしてみたの。どうかしら?」
郁美がそう言いながらみんなの顔を見る。
「うん、美味しいよ郁美さん」
「きのこの風味がよく出てるな」
「それは天然物だからよ」
「お、美味しいです、すごく、はい」
みんなの反応に郁美が安心したように笑い、自分もきのこ汁に箸をつける。
「食べよ」
愛子がそう言いながら、武に箸を渡す。武は頷いてその箸を受け取り、きのこ汁をひと口啜った。
「懐かしい味だ。美味しいですよ。昔は秋になるとこればっかりで飽きてましたけどね。ハハハ」
ようやく武に笑顔が戻った。
「美味しいね!」
愛子は武の笑顔が嬉しいらしく、今までで一番の笑顔を見せた。そして食べ終わると椅子から降りて武の手を握り、
「武、そろそろ姉ちゃんと行こう」
と促した。
武は愛子の顔を見つめた後、少し不安そうにミヤの方に視線を移した。ミヤは優しく微笑み、そして力強く黙って頷いた。
その瞬間、愛子と武の体はだんだんと透明になり、最後にみんなに頭を下げると、完全に消えた。
「あのふたりの魂はね、ずっと一緒に生きてきたの。時には夫婦で、時には兄弟で、時には親友で。そういう関係が稀にあるものなの」
ふたりがいなくなった空間を眺めながら、ミヤがそう言った。
「あのう、皆さん、本当にありがとうございました。皆さんのおかげで、ぼくにもお役目が果たせました」
浜田はそう言って、みんなに頭を下げた。どうやら初めてのお役目だったらしい。
「礼には及ばねぇよ。それがこの街に住む人間の役割だ」
来栖もふたりがいなくなった空間を眺めたままそう言った。
「さてと、もう少しきのこが残ってるから、きのこの和風パスタなんて作ろうと思うんだけど、みんなで晩ごはんにしない?」
「良いねぇ、郁美さん。お願いするよ」
そう志郎が言った後に、来栖が立ち上がった。
「俺はいいや。今日は帰るよ」
「どうして?」
そう言う志郎の顔を見ずに来栖は歩き出し、前を向いたまま片手を振ると、ドアを開けて店を出て行った。
夜の砂浜に来るのは久しぶりだった。何か考え事をしたいときは、船や港の灯りを見ながらが一番良いと来栖は思っている。
太い流木に腰掛け、ゆっくりと動いていく船を眺めていると、考えに集中できる。
「お隣、良いかしら?」
それはミヤの声だった。来栖は前を向いたまま「どうぞ」と言った。
ミヤも流木に腰掛け、しばらく来栖と同じ風景を黙って見つめていた。
「思い出したようね」
「ええ。まだ完全じゃないですがね。記憶の糸口が見えてきてます」
「その糸を引くか引かないかはあなた次第ね」
ふたりの会話を包み込むように、太い汽笛の音がボウと鳴った。
「思い出したら、俺はどうなるんです?生まれ変わるんですか?」
「そうね、でもその前にきっと心の重しを下さなければならないでしょう。あなたが生まれ変わりを拒んだ原因ね」
「それは、キツイんですかね」
「そうね、そうかもしれない。でも大丈夫よ。記憶が戻ってきたということは、その準備が出来てきたということだから」
「生まれ変わるってことは、この街とも、志郎たちともお別れってことですよね」
「そうなるわね」
そう言うと、ミヤは来栖の背中に触れた。ミヤの掌から流れてくる温かさに、来栖は流れ落ちそうな涙を堪えた。
<つづく>