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【記憶の街へ#8】不思議な記憶のスイッチ

子供の頃、小さな借家に住んでいた。
トタンの壁に瓦屋根、2軒が繋がった長屋で、部屋は6畳二間。
冷蔵庫と食器棚を置いたらすれ違えない狭い台所に、水洗じゃない和式トイレにガス釜の風呂。
サッシじゃない木枠の窓は、強い風が吹くとガタガタと音を立てた。

その敷地には10軒ほどの長屋があった。つまり20世帯が暮らしていて、ボクが小学生の頃までは、たくさんの子供たちで賑やかだった。
その親たちは皆、20代から30代。この貧しい住処が一時期の居場所であると信じていて、今より良い未来があると疑わない明るい笑顔だったように思う。
おそらく、昭和30年代に作られたであろう、その借家の一帯は、その頃までが「青春」だったように思う。

朝、目を覚まして2段ベッドから降り、襖を開けると、隣の居間に夜通しの勤務から帰ってきたタクシー運転手の父が、コップ酒を飲みながら釣り銭を数えていた。
母は狭い台所で朝食の用意をしている。
妹は父に甘えて後ろから首に抱きつき、父は釣り銭を数える手を休めずに、春の暖かな陽射しを浴びているような微笑みを浮かべていた。
普段は優しい父だったが、酒を飲み過ぎて機嫌を損なうことも多く、そんな夜は家の空気が緊張し、母に暴力を振るったこともあった。
酒のために仕事を休むこともあり、そうなるともちろん収入は減る。
「あの頃はなんで暮らしていけたのか不思議なくらい」
母はあの頃を思い出すとそう言う。
だけど今なら父の性格や、その恵まれない生い立ちから抱えていた気持ちが分かる気がする。

あまり家族で出かけることは多くなかったが、入谷の朝顔市には毎年出かけた。
鬼子母神で水子供養をして、朝顔の造花がついたお札を頂き、古いお札を納める。
それからボクと妹はそれぞれ小遣いを貰い、父と母に見守られながら出店を冷やかして歩く。
限られた小遣いをとにかく有意義に使いたいと真剣だった。
ボクと妹を眺める、その時の父の気持ちを想像すると胸に込み上げるものがある。
そしてボクは結局、毎年同じように樟脳舟を買っていた。
そのまま言問通りを歩き、鶯谷にある父の知り合いの焼肉屋で食事をした。
そこで父は珍しくビールを飲んでいたのをよく覚えている。

東武線の床が木でできた、当時でも古い電車に揺られ、子供にとっては、すっかり夜も更けた駅に帰りつき、家までの15分を歩きだす。
父は歩くのが速く、ボクは必死に走らないように付いて歩く。
あっという間に母と妹は見えなくなり、すっかりシャッターが閉まった商店街を抜けると、ボクは父から鍵を受け取って走り出す。
家に着いて鍵を開けてガラガラと軽い引き戸を開けると、夏なのにひやりとするような闇がある。
いつも母がいるので、ボクは誰もいない夜の家の姿を知らない。
靴を脱いで玄関に直結した居間に上がり、蛍光灯のヒモを引っ張ると、いつもの部屋が現れる。だけどそこに家族はいない。
さっきまでの非日常の賑やかさから現実に戻ったこともあり、なんとも言えない寂しさに包まれる。
そして父が玄関を開け、しばらくして母と妹も帰ってくると、再び日常が動きだす。
いつもより遅い時間の風呂に入りながら、ボクは洗面器に浮かべた樟脳舟が、ゆっくりと動くのを父と眺めた。

その頃の風景や空気、感情、その日常を思い出すスイッチがある。
それがフランスの作曲家、フランク・プゥルセルの「明日は月の上で」という曲。

彼の楽団が演奏した、ストリングスとビブラホンが印象的なこの曲を聴くと、なぜか子供の頃を思い出す。
これは宮城テレビの天気予報で使われている曲で、埼玉育ちのボクが、子供の頃に日常的の聴いていた訳ではない。
確かに1970年代によく使われた音で、それ自体も懐かしさがあるが、それが原因ではないのは確か。
なぜなら、この楽団が演奏している「ミスター・ロンリー」がFM東京の番組「ジェットストリーム」で使われていたが、それにはそのままの懐かしさしか感じない。

今日の夜、テレビの電源を入れるとチャンネルは宮城テレビで、この曲が流れてきた。
不思議な記憶のスイッチは、今日もボクを記憶の街に連れて行く。

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