【エッセイ】自分を縛る自分らしさ
(2261文字)
ボクは山に登ります。
どちらかと言えば、ちょっと変わった山行が多いかもしれない。
廃道になった登山道を歩いたり、もともと登山道がない尾根の藪を歩いてみたり。
それは今までの記事でも紹介した。
登山道ではない藪を歩くことを「藪漕ぎ」という。
登山道なら1時間で2キロくらい進むだろうけど、藪漕ぎの場合は、その藪にもよるけど1時間で500m、ひどいときには300mしか進まないこともある。
まぁ、普通やりませんよね(笑)
でも、登山愛好者には少なからず藪漕ぎを好む人たちがいる。しかも、かなりハードなことをやってのける人たちもいたりする。
ボクの場合は、好むというより、地図を見ながら立てた計画に藪があるから行くしかないという感じかな。
仮説を立てて実証する、という感覚。
仮説を立てるためには、その藪がどのような状態か、その山域の植生を考えなければならず、そのために偵察に行ったり、ネット上にあるわずかな情報から推測する。
それもまた楽しかったりする。山を味わっているという感覚。
そして上の記事のように、それを達成するとかなりの満足感が得られる。
それはまさに魂が喜ぶという感じ。
でもね、やっぱりキツイんですよ。毎週できることじゃない。せいぜい月に1〜2度くらい。
最近は悪天候や泊まりで山に行けない事情も重なって、2ヶ月近くそういう登山はしていない。
しかし時々、会った人や、連絡をとった人に聞かれたりする。
「最近、藪漕ぎしてないの?」
どうもボクはいつでもひとりで藪漕ぎをしているイメージらしい。
普通の登山もするし、友達と登るのも嫌いじゃない。
何人かで花を見ながら里山を歩くこともある。
それぞれ楽しみ方が違う。
ちなみに、ボクは登山のレポートをヤマレコという登山アプリにアップしている。
インターネットで山の情報を調べて参考にさせてもらっているので、こちらも誰かに参考にしてもらおうと、全部ではないけどアップする。
相互に情報を提供し合うというインターネットの理念に基づいて。
とはいえ、やっぱり読んでもらってリアクションをもらえれば嬉しい。これはnoteもそうだけど、SNSなら当然の感覚だと思う。
ただ、それが目的にならないように、なるべく山の情報と山行についてのレポにするようにしている。
登山をする→レポをアップする→リアクションをもらう→そこから仲間ができる
この流れを繰り返していくと、流れが逆になっていく場合がある。
つまりこういうこと。
仲間からリアクションが欲しい→レポをアップしなければ→登山をしなければ→できれば仲間が驚く登山がしたい
これね、SNSの罠というか、SNSに使われるようになってしまう人間の性質というか。
登山の場合は、この感覚で登山をすると危険に繋がりやすい。目的が人に見せることなので、そこに意識が集中してしまう。
しかしそういう人は多い。
「最近、藪漕ぎしてないの?」
と言われるというところに話を戻す。
それが他人から見た自分、つまり自分らしさだと感じると、その期待に応えなければならない気がしてしまう。
期待に応えたいというのは、社会性動物として当然の感覚だと思う。
だけどそれが目的になっていくと、これならみんな驚くんじゃないか、などと思考回路がその方向に進んでいく。
リアクションを貰えるうちは良い。ある意味、躁状態とも言える。
しかし、予想していたリアクションがもらえなかったら?
もらえたとしても、そのリアクションに魅力を感じなくなったら?
そうなると、面白くなくなっていくんですよ、登山が。
そして本当は自分が何をしたいのかさえ分からなくなる。
自分らしさに縛られていくと自分を見失うわけですよね。
それならどうしたら良いか。
自分がその時にやりたいと思ったことをやれば良いんですよね。
他人の期待や、縛られていた自分らしさを忘れる。
草むらをかき分けながら失くしたボールを探すように。
その探し方を覚えると、次のやりたいことも見えてくる。
そうやって進んでいって、振り返ったらできていた道が本当の自分らしさなんじゃないかなと思う。
あ、藪漕ぎの楽しさ、ありました。
藪漕ぎして目的の頂上に立って振り返ったとき。
道なんかないんだけど、自分が歩いた尾根が見える。
自分が決めて歩いた道なき道。
そこを振り返った時の満足感は何ものにも代えがたい。
自分らしさに縛られることって、みんな多々あるかと思うんですよ。
例えば、親にこう言われて育ったら。
「お兄ちゃんは良い子だね」
それで無意識に良い子を演じてきた人もいると思う。
弟が優先されたとき、本当は文句を言いたいけど、良い子だから言ってはいけない。
呪いみたいになってたりして。
友達との関係の中でも、自分の役割が決まってしまうと言いたいことも言えなくなったり、そのうち、自分ってそういう性格なのかと、言われたことになんとなく納得したり。
そのうち、それが当たり前になると、何も感じなくなるかもしれないけど、心の底に澱は溜まっていく。
SNSは、そういう自分から自分を解放してあげられる場所だと言える。
その部分ではインターネット、SNSは良いツールだと思う。
特にこのnoteは、他のSNSに比べてナチュラルに自分を開放しやすい場所のような気がする。自分の「表現」が主だからね。
ため込んだ欲望やストレスを発散するSNSも多いからね。
ちなみに、ボクが母親から与えられた呪いはこれ。
「パジャマのズボンを履いて寝ないと風邪をひく」
未だに履いて寝ないと不安です(笑)
写真は昨年歩いた藪尾根を、今年の6月に和賀岳山頂から撮ったもの。感慨深かった。