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【ショートショート】あなたのいない世界で #虎吉の交流部屋初企画

ミーン、ミン、ミン、ミー。
セミの声が少しずつ、ボリュームを上げるように街の音とともに耳に入ってくる。
昼寝をしていたようだ。
陽を遮るためにカーテンを閉め、エアコンをかけていたにもかかわらず、じっとりと粘り気のある汗が体を覆っている。ソファまで少し湿ったような感じがする。
読んでいた文庫本は、ページが開かれたまま胸に乗っていた。
僕はページを閉じて傍に置き、体を起こした。
夢を見ていた。
夢とは言い難いような夢を。

気がつくと僕は知らない部屋にいた。
いや、知っている。どこかで見た部屋だ。
窓から外を見ると公園があり、子供たちがブランコや滑り台で遊んでいて、その声がガラス越しに微かに聞こえてくる。学校が終わった後だろうか。夕刻にはまだ幾分かある時間のようだ。
公園の向こうには道路があって、その向こうに砂浜が見えるが、凪いだ海からの波音は聞こえてこない。
海沿いの住宅地なのだろうか。
古いが天井の高い和室にはカーペットが敷かれ、ダイニングテーブルとソファが置かれている。どこか懐かしい雰囲気だ。
「ただいま」
カチャッと玄関の扉が開く音がして、女性の声が聞こえた。
僕が振り返ったのと同時に、声の主は僕がいる部屋に入ってきた。
「あら、もう寝てなくていいの?」
歳は僕と同じ三十歳前後だろうか、肩の下くらいまであるストレートな黒髪を軽く束ねている。黄緑色のワンピースはシンプルだけど、生地の上等さが感じ取れた。
「ちょっと風いれるね」
女は僕の横に来ると窓を開けた。子供たちが遊ぶ声と同時に、夏の風が部屋に転がり込んできた。
女の顔は決して派手な作りではないが整っていて、薄化粧が品の良さを伺わせた。僕は少しの間、気持ち良さそうに風を受ける女の横顔に見惚れた。
女は風に向かって軽く深呼吸してから、僕の方に向き直って言った。
「起きたなら、ちょっと早いけど夕飯の準備しちゃうね」
「ああ、ありがとうシイナ」
僕は自分の言葉に驚いた。シイナと呼んだ。僕はこの女を知っているのか。
キッチンに立つ女の後ろ姿を眺める。ワンピースの上に縛った薄いベージュのエプロンに見覚えがある。
僕はこの女、シイナを知っている。
この部屋も知っている。
だけど何も思い出せない。
少しずつ、夏の空に浮かんだ雲に朱色が差す。公園の子供たちがひとり、またひとりと帰路に着く。
「おまたせ」
シイナがそう言ってダイニングテーブルに置いたのは、僕が好きなミネストローネスープだった。それにパンとハムとサラダ。
僕はシイナに向かい合って座り、彼女が「いただきます」と言うのを真似するように「いただきます」と言って、スプーンでスープを掬った。
口に入れると、なんとも言えない懐かしい味がした。
僕はもう随分前から、この女、シイナを知っている。
「美味しい?」
「うん、美味しい」
「そう、良かった」
シイナが微笑んだ。
「今回はちょっと長かったね」
「長かったって?」
「こっちにいるのが」
「こっち?」
こっちとはどこのことなのか。そもそもここはどこなのか。
僕はスプーンを置いて言った。
「ごめん、何も思い出せない。君が誰なのか、ここがどこなのか」
シイナもスプーンを置いた。そして少しの間、じっと僕の顔を見つめた。
「んー、少し混乱しているようね」
「混乱?」
「やっぱりもう帰る時間みたい」
「帰る?」
シイナは僕のその問いには答えず、イスから立ち上がると僕の方にやってきて手を取った。僕は促されるように立ち上がり、二人で並んでソファに腰をかけた。
シイナは僕の手を愛おしそうに撫でている。
僕は黙ってシイナの言葉を待った。
「ここはね」
シイナは僕の顔を見ず、撫でている手を見ながら言葉を続けた。
「あなたが癒される世界」
「癒される世界?」
「そう。そして私はあなたを癒す人」
「どういうこと?」
シイナは少し考え込んでから、顔を上げて説明を続ける。
「あなたの心が疲れると、いつも来る場所」
「いつも?」
「そう。子供の頃から。今回はちょっと長かったわね」
子供の頃からここに来ているのか。確かにここは知っている。なぜか自分の家のようにも感じる。だけど思い出せない。
「あなたと過ごす時間が私の幸せ。でもまたお別れね。今回は長くて嬉しかった」
「ここは現実の世界なの?」
「私にはね。あなたには違う」
シイナが撫でている僕の手が、少しずつ透けていくように見える。
「待ってる、あなたのいない世界で。私を忘れないで」

シイナの手の感触が、手の甲に残っていて、僕はソファの上に起き上がったまま、自分の手を眺めた。
ソファのサイドテーブルには夏の海が写ったポストカードが置かれている。
僕は裏返して何度も読んだ文字を読み返す。

ありがとう 幸せでした
ごめんなさい

自分を捨てた女から言われる「ごめんなさい」は、惨めな気持ちを呼び起こさせるだけだ。
最後まで彼女は自分の気持ちばかりで、僕の気持ちを解ろうとすることがなかった。
僕はシイナを想った。
ただの夢のようには思えなかった。
きっとシイナはここじゃない世界にいる。
僕がいない世界で、どんな毎日を過ごしているのだろう。
僕はソファから立ち上がって、彼女からのポストカードをゴミ箱に捨てた。
胸の痛みは消えていた。
夕飯の買い物で外に出る前に汗を流そう。
久しぶりにミネストローネを作ってみようか。


「虎吉の交流部屋初企画」に参加させていただきました。
タイトルはピチカートファイブの曲。
だけど僕はこのT.V.JESUSのカバーバージョンが好きです。
久しぶりにこの曲を聴いたら、こんな話が思い浮かびました。
あと、凡筆堂さんの夢の話を読んだからかな?


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