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【連作短編】はざまの街で #7 記憶

 庭の欅の木に残った枯れ葉がもうわずかになった。
 雲ひとつない青空だが陽の光は柔らかく、収穫が終わった小さな家庭菜園の土づくりをする志郎の背中をじわっと温めていた。
「よう」
 ゆっくりと家までの階段を登ってきた来栖が、志郎の背中に声をかける。
「あ、来栖さん。こんにちは」
「良いねぇ、お前は」
「は?」
 ポケットに手を突っ込んで微笑んだままそう言う来栖の顔を見上げながら、志郎は少し間の抜けた声で応えた。
「志郎、お前さんは癒しそのものだな。見てるとなんだか落ち着くよ」
 怪訝な顔で立ち上がった志郎に、来栖の背後から真面目そうな中年男が挨拶をする。
「こんにちは。はじめまして。田辺です、田辺信彦」
「あ、こんにちは。はじめまして。志郎です」
 サラリーマンの挨拶のように、お互い深く頭を下げるふたりの肩を軽く叩きながら、来栖は「じゃ、うまくやってくれ」と言って門を出た。
 いつもと違う来栖の様子に戸惑う志郎の頭上を、わずかな風が流れて欅の枯れ葉を揺らした。
 志郎は慌てて門を出ると階段を降りて行く来栖の背中に叫んだ。
「来栖さん!」
 その声を聞いても来栖は足を止めず左手だけを上げて左右に振った。
「来栖さん!」
 もう一度志郎が叫ぶと今度は立ち止まった。そして空を仰ぎ、ゆっくりと振り返ると、階段の上で立ち尽くす志郎を見上げて微笑む。
「志郎!もし俺がいなくなったら、郁ちゃんを頼む!」
「来栖さん!ちょっと待って!」
 階段を何段か降りた志郎を、来栖は右手を大きく広げて制した。そして立ち止まった志郎に向かって、大丈夫だと言うようにゆっくりと頷き、再び階段を降りていった。
 志郎はその背中をただ見送るしかなかった。

 来栖が階段を降り切って、大通りの信号のボタンを押すと、横断歩道の向こうにミヤが立っていた。
 ふたりの間を車が通り過ぎるたびに緩やかにまとめたミヤの白い髪が揺れた。
 信号が青に変わり、来栖はゆっくりとミヤに近づいていく。
 黙って立つミヤの笑顔に、来栖はポケットから手を出して軽く頭を下げた。
「ミヤさん」
 ミヤは相変わらず微笑みを絶やさない。
「ミヤさんの笑顔は菩薩みたいだな」
「そう?それは褒めているのかしら?私は無宗教だから分からないわ」
「ハハ。本当に優しい笑顔には勇気をもらえるよ」
「そう。それじゃ行ってらっしゃい。きっと大丈夫よ」
 そう言うと、ミヤは来栖の背中を軽く押した。

 志郎が降りかけた階段を二、三段登り家に戻ると、玄関の前で田辺が心配そうに立っていた。
「あのう、大丈夫ですか?」
「ああ、ごめんなさい。大丈夫です、ウン、大丈夫」
 志郎は両手でパチンと自分の頬を叩いて表情を戻すと、玄関の引き戸を開け田辺を家の中に招き入れた。
 いつものように二階の部屋に案内すると、壁一面の本棚に田辺は感嘆の声を上げ、その中から駆け寄るようにして一冊の図鑑を抜き出した。
「日本の鉄道図鑑。しかも1975年って、私が子供の頃じゃないですか」
「ああ、その図鑑そんなに古かったんですね」
 田辺は志郎の存在を忘れたかのように本棚の前に腰を下ろし、組んだあぐらの上に図鑑を広げた。
「おお、この電気機関車はEF58か。懐かしいなぁ。おお、ブルートレイン。この頃はまだ20系だったのか」
 その時、田辺のお腹から空腹を知らせる音がグゥ〜と鳴った。
「あ、すいません、ハハハ」
 その音で田辺は我に返り照れたように笑った。
「お腹が空いているようですね。おいしいカフェがあるんですが行きませんか?」
「良いですね。お願いします」

 昼の買い物で混み合う時間が過ぎると、商店街は落ち着きを取り戻した。
 客が途切れたので、肉屋の主人である直樹は店の前を掃除しようとホウキとチリトリを持って外に出た。
 晩秋の空気は冷たいが風はない。青空から降り注ぐ陽の光が一日のうちで一番強い時間は過ぎたようだ。
 視界の隅に立ち止まっている人影があることに気がついて顔を上げると、それは黒いジャケットに白いシャツの栗栖だった。
「おう、どうした、栗栖ちゃん。コロッケでも買いに来たのか?」
 そう声をかけても来栖は返事をせず、何か思い詰めたような表情で立っている。
 来栖のそんな表情を見るのは、ここでは初めてだった。
 そうか、ついにこの時が来たのか。
 直樹は全てを察して少し背筋を伸ばし、ひとつ大きく呼吸をしてから訊いた。
「思い出したのか」
 来栖は表情を変えずに黙って頷いた。
「そうか。それなら昔のように誠治って呼んで良いよな」
 その問いにも来栖は黙って頷いた。
 ふたりの横を、ゆっくりと自転車が通り過ぎる。微かに風が吹いた。
「ま、入れよ」

「私ね、いわゆる鉄ちゃんでね」
 シトロエンに揺られながら助手席で田辺が話し出す。
「鉄ちゃん?」
「あ、知りません?鉄道ファンですよ」
 なるほどという顔で、ハンドルを握った志郎が前を向いたまま頷く。
「子育ても終わって、五十八で会社も早期退職するところだったんですよ。よし、これから日本中の鉄道に乗るぞって思ってたんですけどねぇ、ハハハ」
 悔しさを少しだけ滲ませた表情で田辺が笑った。シトロエンは道路に落ちた枯れ葉を舞い上げながら走る。
「死んでしまったら仕方ないですもんね。女房と豪華寝台列車の旅なんてしてみたかったなぁ」
 田辺の話を聞きながら、志郎の脳裏には来栖の表情が浮かんでいたが、今は田辺の話を聞かなければとそれを振り払った。
「田辺さんはそれが心残りですか?」
「まぁ、心残りと言えば心残りですけどね。女房のことも娘のことも。でも、いつかは来ることですしね。ちょっと早かったけど」
 そう話す田辺の表情からは心のつかえのようなものは感じられなかった。
 やがて紅葉が終わりかけた森の向こうに郁美の店が見えてきた。

「慶子、お茶淹れてくんねぇか。お客さんの分もな」
「はいよ。お客さんってどちらさん?」
 台所から顔を出した慶子が来栖と目が合う。来栖の表情に慶子は全てを察して視線を移すと、直樹はゆっくりと頷いた。
「誠ちゃん」
 慶子が口にした昔の呼び方に来栖ははにかんで笑った。

 慶子が急須で丁寧にお茶を淹れるのを来栖と直樹は見るともなしに見ていた。
 やがて慶子が「はいどうぞ」とそれぞれの前に湯飲みを置き、最後に自分の湯飲みを手に取って一口飲み濃さを確かめた。
 その湯飲みをちゃぶ台に置く、コトッという微かな音を合図にするように直樹が口を開く。
「大磯に行ったの、あれは誠治、お前が何歳の時だった?」
「十二かな」
「あれは大正の終わりころか?まだ平和な時代だったな」
「可愛かったわよね、誠ちゃん」
 慶子の笑顔に、ちゃぶ台を囲んだ空気が緩んだ。
「よしてくれよ、慶子さん」
 そう笑ってお茶を一口飲むと来栖が俯いたまま話し出した。
「叔母の家に引き取られて厄介者扱いされてた俺を、ふたりはよく気にかけてくれたよな」
「そこまで思い出したのか」
「ああ、ほとんど思い出したよ。直樹さんが新聞記者だったことも、慶子さんが綺麗でみんなが振り向いたことも」
「あら、今が綺麗じゃないみたいじゃないの」
 その慶子の言葉には反応せずに、重い表情で来栖が顔を上げた。
「俺がしてきたことも」
「誠治、ありゃお前が悪いんじゃない。時代が悪かったんだ。全てあの戦争のせいだよ」
「ありがとう直樹さん。だけど俺がたくさんの人を死に追いやっていたのは確かだ。直樹さんもそのひとりだったじゃねぇか」
「そうだな。だけど恨んじゃいねぇよ」
「あら、私は恨んだわよ」
 直樹と来栖が慶子に視線を移す。慶子はその視線にひとつずつ笑顔を見せながら続けた。
「でももう恨んじゃいないわ。この人が言うようにそういう時代だったのよ」
 その言葉に、来栖は後ろに下がって左布団から降りて深く頭を下げた。
「直樹さん、慶子さん、本当に済まなかった」
「なにしてんだよ誠治。話しづらいじゃねぇか。頭を上げろよ」
「そうよ、もう気に病まなくて良いの」
 ふたりの柔らかい言葉にありがたいと思いながら来栖は顔を上げた。その目に涙が溜まっていることに気がついて、慶子が立ち上がってエプロンのポケットに入れてあった手拭いを渡した。
「思い出したってことは」
 直樹がそこで少し言葉を止め、来栖が自分の方を向くのを待って続けた。
「自分を許すことができたってことだよな」
 来栖はゆっくりと頷いてから背筋を伸ばした。
「あとはふたりに謝らなくちゃいけないと思ってここに来た。許されないとしても」
「馬鹿だなぁ、誠治」
 直樹は来栖の言葉を笑い飛ばすように言った。
「なんで俺たち夫婦がこの街にいると思ってるんだよ」
「え?」
「そうよ。馬鹿ね」

 ランチタイムが終わった郁美の店は静かだった。
 郁美はカウンターに腰掛けてカップに浮かんだ自分の顔を眺めていて、入り口のドアのベルがカランコロンと鳴ったことにも気がついていなかった。
「郁美さん?郁美さん」
 間近で呼びかける志郎の声に我に返った郁美は、慌てて「ごめんなさい」と言って立ち上がった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。ちょっと考えごと。座って」
 郁美は誤魔化すように笑顔を見せると厨房に入っていった。その姿を眺めながら、志郎は田辺を促して窓際のテーブル席に座った。
 開け放たれた窓から、湿気のない爽やかな空気が緩やかに入ってくる。
 水とレモンの輪切りが乗った皿を持ってきた郁美に、志郎は田辺を紹介した。
「昼ごはんは済ませちゃったから僕はコーヒーだけで。田辺さんは?」
「何ができます?」
「そうねぇ、ローストビーフのホットサンドなんてどうかしら?」
「良いですね。それじゃお願いします」
 田辺のオーダーに頷く郁美の笑顔はいつもと同じように見えたが、その後ろ姿に志郎はわずかな空気の重さを感じた。
「どうしたんですか?志郎さん」
「あ、いや、なんでもないです」
 ウッドデッキの手すりを小鳥が歩いている。尾を上下させているところを見るとセキレイか。青空には小さな雲がひとつぽかりと浮かんでいて、そこに向かってトンビが輪を描きながら昇っていく。
「長閑ですねぇ」
 田辺が目を細めながらトンビを眺めている。志郎は黙って頷いた。
「志郎さん、ここは魂を癒すところだと聞いたんですが、そのあとはどうなるんですか?」
 昇り切ったトンビが滑走を始めてすぅっと視界から消えた。
「僕がはっきり言うことはできませんが、また人間に生まれ変わるようです」
「そうですか」
 田辺は安心したように背もたれに体を預ける。
「それまで疲れを癒してください」
「はい、疲れました。のんびりさせてもらいます」
 田辺がそう言ったところに郁美がホットサンドを運んできた。
「おお、これは美味そうですね」
「どうぞ召し上がれ」
 郁美もイスに腰掛けて田辺の反応を待つ。
「うん、美味い!ローストビーフがジューシーで。玉ねぎの辛味があるのも良いですね」
「ありがとう。嬉しいわ」
 田辺は何度も美味しいと言うかわりに頷きながら、あっという間にホットサンドを食べ切った。そしてコーヒーに口をつける。
「コーヒーも美味い」
 その言葉に反応した郁美の笑顔はいつもどおりに見えて、志郎は余計な心配だったかと思い直した。
 コーヒーカップをソーサーに戻すと田辺が自分のことを話しはじめた。
「私ね、閑職に追いやられていたんですよ、内部告発でね」
「内部告発?」
「そう。どうしてもこのままじゃいけないと思うことがありまして、行政機関の該当部署を調べて告発しました。すぐに調査が入って不正が露見して、上司が三人責任を取って降格になってね。そのうちふたりはすぐに退職しました。でも内部告発したのが私だということがバレて設計から在庫管理の倉庫に配置換えされたんです」
「でも」
 郁美が身を乗り出すようにして口を開く。
「そういうのって人権侵害っていうのかしら、法律で禁じられてるんでしょう?」
「そうですね。でも会社側の言い分としては単なる配置換えなんです。なにしろ告発者が誰か分かっていないというのが会社のスタンスでしたから。友人からは弁護士を立てて争った方が良いんじゃないかとも言われましたが、娘はまだ中学生だったし家のローンもあった。こうなったら石にかじりついてでもこの会社に居続けてやると思ったんです」
「そうだったんですか。それは辛かったでしょう」
 そう労う志郎に、田辺は笑顔を向ける。
「辛かったですねぇ。毎日のように上司がやってきてね。よく会社に居続けられるよねぇとか嫌味を言って帰るんです。自主退職させたかったんでしょう。負けてなるものかと思っても、ああ毎日言われているとキツイ。気にしないようにしようとすると、だんだん自分の心に幕がかかっていくのが分かる。それが次第に厚くなっていって、辛いことだけじゃなくて楽しいことも感じなくなる。表情も乏しくなる」
 志郎と郁美は沈んだ表情で黙って聞いている。そのふたりの様子に申し訳なく思ったのか、田辺が務めて明るく話を続ける。
「でもね、良いこともあったんですよ」
「良いこと?」
「娘がね、中学で虐めを受けていることに分かってあげられました」
 一瞬、郁美の肩がビクッと動いたのを志郎は見逃さなかった。田辺はその様子に気がつかず話を続ける。
「私が受けていたのも、まぁ、虐めですよね。ある時に娘も同じ状況にあるんじゃないかと気がついたんですよ」
「自分が同じ状況だったからピンときたんですか?」
「そうですね、そうだと思います。それで妻とふたりでなるべく問い詰めないように注意しながら訊いてみると娘は泣き出してね、話してくれたんです」
「あ、コーヒーのおかわり持ってくるわね」
 ふたりのコーヒーカップが空になっていことに気がついて郁美が立ち上がり厨房に向かった。その後ろ姿を見ながら田辺は話を続ける。
「それから家族で話して娘を学校に通わせるのをやめました。勉強はどこだってできる。学校に乗り込んで嫌な思いをする必要はない。娘に向いているフリースクールを探して。妻もフルタイムで働いていて忙しかったんですが、幸い私は定時に上がれるし有給もいつだって取れる。娘のことをしっかりと見てやれたと思います。ハハハ、世の中悪いことだけじゃないですね。まぁ、それでも会社に十五年しがみつくのはさすがに疲れました」

 商店街からキーという自転車のブレーキ音が聞こえたが、三人の耳には届いていないようだった。
「俺たちはな、お前が心配で待ってたんじゃねぇか、この街で」
「そうよ」
 微笑むふたりを交互に見ながら来栖は直樹の言葉を待った。
「誠治、お前がアカ狩りに踏み込んできたときには驚いたぜ。なにしろあれが十年ぶりの再開だもんな。警察官になったとは聞いてたけど、まさか特高警察になっているとは思わなかったよ」
「そうだあの時、直樹さんはなんだってアカの集会なんかにいたんだよ」
 来栖は座布団に座り直し、今度はちゃぶ台の上に上半身を乗り出して直樹の顔を見つめた。
「おいおい、アカって言い方は良くねぇな。共産党員だ。彼らだって悪戯に国家転覆を狙っていたわけじゃねぇ。あの戦争を終わらせたかったということについては俺も同じだった」
 来栖は乗り出した体を元に戻した。その様子を見ながら直樹は話を続ける。
「あの頃、俺たち新聞記者は何も書けなかった。戦況が日に日に悪くなっているのを知っているのにそれを国民に知らせることができなかった。軍の校閲があったからな。この戦争は間違いなく負ける。それなら一日でも早く終わらせて、少しでも多くの命を救わなけりゃならない。俺たち新聞記者と共産党員の目的は一致していたってことさ」
「そうか。直樹さんが正しかったってわけだな。あの頃はまだ俺は日本が勝つと信じてたよ」
「そうだろうな。立場が異なれば物事の見え方は全く違うもんだ」
 店先からこんにちはという客の声が聞こえて、慶子は「はーい」と大きな声で応えて立ち上がった。
 リリリという綺麗に響く音に来栖は辺りを見回した。
「ああ、あの音か。鈴虫だよ。どうやら猫の額みてぇな庭にいるらしい。昼間からでもこうして鳴くことがあるんだ」
「直樹さんが取り調べ中に死んだって聞いたよ」
 鈴虫の話には応えずに来栖は話を続けた。
「取り調べか。ハハ、ありゃ拷問だったけどな。共産党員じゃないって何度言っても信じてもらえなかった」
「共産党員かどうかは俺たち特高にとっちゃどうでも良かったんだ。ただ国に盾つく人間を許すわけにはいかなかった。そうやって俺が検挙して獄死した人間はたくさんいたよ」
 そこで来栖は大きくため息をついた。
「あの頃は狂ってたよ。苦しくなれば人間は狂っていくものなのさ」
「慶子さんはどうして?」
 来栖の問いに、エプロンで手を拭きながら戻ってきた慶子が「あたしかい?」と応える。
 腰を下ろしてポットから急須にお湯を入れ、みっつの湯飲みにお茶を注ぎながら、慶子は一言「空襲」と言った。
「そう、こいつはあの東京大空襲だ」
「それより誠ちゃんは?」
 湯飲みにお茶を注ぎ終わった慶子が座り直して来栖に訊ねる。
「あれからどうしてたんだい?」
「戦後、特高警察の同僚たちの多くはそのまま警察に残って公安課になったけどな、俺は警察を辞めた。腕っ節を買われて用心棒なんて仕事もしたけど、復興が進んでくると日雇いの仕事を見つけて食いつないだよ。土方に沖仲士さ。安宿に寝泊まりしてね」
 来栖はお茶を一口飲んだ。夕方の買い物の時間が近づいているのか、商店街が少し賑やかになったように感じる。
「そう。でもどうしてここに?」
 表を少し気にしながら慶子が来栖に先を促す。
「ちょうど高度経済成長に入った頃かな。喧嘩を止めに入ってね。片方が刃物を持っているのが分かったけど、それで俺はここが死に場所かもしれないと思ったよ」
「まぁ。それで?」
「そうだな。それからは記憶がない」
 黙って聞いていた直樹が湯飲みを置く。
「終戦から十年か。充分に苦しんだんだな」
「俺はここに来て、もう生まれ変わりたくないと言ったんだ。それならしばらくこの街でお役目を務めてほしいと言われた。その時に重荷になっている記憶が消されたんだろう」
「俺たちはそうやってお前がここに来るのを待っていたんだ。なぁ慶子」
 そう言って直樹は慶子の顔を見る。
「そうよ。きっと苦しんでいるはず。もう生まれ変わりたくないと思っているはずだってね」
 ふたりの柔らかい笑顔に、来栖は子供の頃の気持ちを思い出していた。
「だからお前が現れた時には嬉しかった。俺たちの記憶がないかもしれないということは聞いてたよ。だから驚きもしなかった」
「そうよ。誠ちゃんが自分を許せる時まで、生まれ変われる時まで見守ろうって。その時にはきっと私たちを思い出してくれるはずってね」
 来栖の脳裏には記憶の底に沈殿していた思い出が次から次へと浮かび上がってきた。
 長屋の外れにひとりぼっちで座っていた、子供の頃の来栖に声をかけたのは慶子だった。それから直樹の仕事が休みの日には、色々なところに遊びに連れていってくれた。
 大磯の海水浴場、桜が咲く上野恩賜公園や関東大震災で倒れる前の浅草十二階、その震災で安全な場所に避難させてくれたのも直樹だった。
 その恩人に俺は手錠をかけ、そして死に至らしめた。許されることじゃない。あれから俺は死ぬ時を待つようにただ生きていた。
「誠治、もう良いだろう」
「そうね、私たちと行きましょう」
 ふたりは来栖を見つめたまま微笑んでいる。
「それなんだけどな、直樹さん、慶子さん」
 そこで一旦言葉を切って頭を下げると、来栖は強い表情でふたりを見つめた。
「俺にはまだここに残って見守りたい奴らがいるんだ」
 直樹と慶子が顔を見合わせる。
「志郎くんと郁美さんね」
「分かってたさ」
「ずっと待っていてくれたのに本当に申し訳ない。ミヤさんがもう少し残れるように頼んでくれたんだ」
 慶子が栗栖ににじり寄って両手で右手を包み込んだ。
「誠ちゃん、あなたはもうひとりじゃない。ここでも、生まれ変わってもね」
「そうだ。俺たちが待ってる」
「きっと会えるわ」
 少しずつ来栖の右手を包んでいた柔らかな感触が消えていく。その手に来栖の涙がひと粒、ふた粒と落ちると、直樹が半分透明になった手のひらで来栖の頭を優しく叩いた。
「泣くんじゃねぇよ、誠治」
 ふたりは笑い声を残して旅立っていった。
 来栖の涙が止まると賑やかになった商店街の音がなだれ込んできた。庭先からは冷たい風が入ってきて、晩秋の夕暮れが迫っていることを伝えていた。

「郁美さん?」
 田辺の話がだいたい終わったところで、志郎は郁美が厨房に行ってからだいぶ時間が経ったことに気がついた。
 返事がないことを不審に思って志郎は田辺と顔を見合わせると、左手を少し上げて中座を断わって立ち上がった。
 厨房の見えるカウンター越しに、中で郁美が丸椅子に座り、肘をついた手で頭を押さえているのが見えた。
「郁美さん、大丈夫?具合悪いの?」
 志郎の呼びかけに気がついて郁美が顔を上げる。
「あら、ごめんなんさい。大丈夫よ。あ、コーヒーだったわね」
「そんなことはいいよ。それより調子が悪いなら寝ていた方が良い」
 志郎が不安な顔で言う。ここではあまり体調を崩すということはない。郁美もここに来て初めての頭痛だった。
「ありがとう、大丈夫よ。寝ていれば治ると思う。今日はこれでお店は閉めさせてもらうわ」
 郁美は立ち上がって、ごめんと言うように志郎に向かって手を合わせた。

 店の前で志郎のシトロエンを見送ると、郁美は隣の自宅のベッドに倒れ込んだ。枕元の電話が視界に入り「なにかあったらすぐに電話して」という志郎の言葉と不安そうな顔が思い浮かぶ。
 頭痛の原因は郁美には分かっていた。
 記憶が戻ってきたからだ。
 全ての記憶を失っているわけではないが、数日前から突然断片的に浮かぶ映像が残った記憶をつないでいく。
 そして今日、田辺の話を聞いている時に、突然学生服を着た幼い男の子の笑顔が脳裏に現れた。
 あれは私の子供に違いない。
 しかしその先を考えようとすると頭痛が襲ってくる。まだ思い出す時ではないのかもしれない。それならなぜ?
 郁美はベッドの横のブラインドを閉めて暗くなった部屋で、考えないようにして眠りにつこうとしたが、男の子の笑顔を消すことはできなかった。

<つづく>


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