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民藝館と現代の民藝

「民藝品は民衆の健やかな日常生活のためのもの」という定義であるなら、民藝館のミュージアムショップで販売されている商品は、民藝館の収蔵品と同レベルのものでなければならない。少なくとも同じ波長を持つものでなければならない

しかし実際には全く違う質のものであるから、現状では民藝館自体が、民藝論にある矛盾を証明する存在になっているのではないだろうか

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晩年の柳宗悦氏は、当時の民藝品の質の低下についての警句を強い調子で著書に書き残している。創始者の柳宗悦の時代から、上記のような問題はあったのだ

不思議と、民藝系の作り手も紹介者たちも、その警句を引用する事は少ないように観える

“民藝論”は、経典化されパッケージ化されそれ自体が権威になり商品にされてしまった事により、民藝美を追求するための基本姿勢の核ではなくなってしまった。だから自己批判は危険である。当然そういう話題は避けるようになる。創始者の警句を無視してでも

現代では、一部の作り手の制作物や、工芸品店のオーナーの哲学や好みが色濃く出ている店などに民藝的美意識の本流が引き継がれているのではないだろうか。現代にも素晴らしい仕事をされている方々は沢山おられる

民藝館自体は「柳宗悦好みの民藝美の資料館」としての価値は大いにあるけども、今の民藝を直接的に動かす存在では無いと個人的には把握している

民藝の価値と本質は、実質的・現実的には「民藝的美意識」にあるのであり、重要とされている教義化されたその周辺の理屈が重要なのでは無い。民藝九ヵ条は、柳宗悦自身が晩年に書いている通り「当時はそうであったものに過ぎない」のだ。民藝美自体は時代の移り変わりがあっても不変のものだが、その思想や理論は常に更新が必要だ

それは誰かが作った教義に従うのではなく、個々で考えるべきものなのである。そうしなければ本質が歪む。民藝論が世に出て、それが行き渡り自走し始めた時から、それは柳の手を離れ、個々の生き方の問題になったのだ。だから民藝的美意識は常に確固たる存在感を示し、人々に何かしらの影響を与え続けているのである


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