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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#コラム

資質と才能は運用する感覚で使う

noteで、#社会人1年目の私へ というテーマを募集しているのを眼にして、何か思いつくかな・・・「当時の自分を振り返って、新社会人にメッセージを」ということですが、私は初老の今もウダツが上がらず、という感覚しかないので若い人たちにどうのこうの言える事も無いのですが、自分が今までしてきた仕事の経験で至った「資質や才能についての実用的な考え」など書いてみたり・・・思いつくままダラダラ長く書きました。 追記=以前、だいたい似たような内容のことを書いていました→「使えるだけの才能が

絵を習うと失うものと、絵を習ったから描けるようになるものと

絵を習わないと描けない絵があるのと同様に、アカデミックな絵の技法や理論を学んで練習し身につけてしまうと、描けなくなってしまう絵があります。 しかし、余程の資質と才能を持っている人でない限り、技法や理論を習い身につけた方が、習わないで絵を描いているよりも、段違いに描きたいものが描けるようになります。 また、自分の絵画制作への強烈な欲求から高度な必然で身につけて行った知識や技法なら自分の感性を邪魔することはありません。 ただし「自分は好き勝手にやりたい、それがアートだ、だか

古典を扱う際には

私が古典を扱う際には、 「古典」を扱うということは「自分の師匠や、自分の前世代の有名作家の古典文様を使った作品を、さらにマネすることではない」と考え扱います。 伝統工芸系では古典と称しながら上記のようなものがとても多いのです。 私は自分が直接古典に触れて、そこから「新しくなにかを産み出すこと」が大切だと考えています。 そうすることによって「古の人と現代人との文化的出会い」が起こるわけで、それが伝統の面白さです。 さらに「古典の本質を増幅させるために再構築する」ことが

本当の意味での評論文化が欲しい

いわゆる伝統工芸の世界では、古法を忠実に現代に行うこと、昔の価値観でやっていることを売りにしているところが多いと思いますし、そういうものが特別なものとして評価を受けやすいところがあるように思います。 しかし、その古法や昔の価値観が出来た当時はそれが最新であったわけです。 そして、近現代で、それ以上のものを作れなかったから、未だにその古法や昔の価値観が最上とされているわけです。 乱暴に言ってしまえば、優れた古法や昔の価値観を超えることが出来ない現状があるとも言

伝統工芸の専門家といっても分からないことは分からないもので

伝統工芸系といっても、分野が違うと「全然分からない」ということは多いものです。 当然私も工芸系の他分野のことの詳細は分かりません。例えば漆を例にしても、同じ伝統工芸系でも染色とは「全く別」なので、ザックリしか分からず具体的なことは体感的には分かりません。 専門家がつくった漆の蒔絵技法のパネルを見たとして、その解説文の専門用語に、さらに簡単な解説までついていても「そういう方法なんだな」とは思いますが、体感的なイメージまでは出来上がりません。 これは「同業の分野違い」でも同

色気のあるモノにするには時間とお金がかかる

工業製品で色気のあるものにするには、大変なお金と時間と手間がかかりますし、細部は手作業でなければ出来ないことが増えることが多いように思います。 同じく手仕事で精密さがありながら柔らかさのある、色気のある仕上がりにするのは高度な技術と長年の経験と、さらにセンスが必要です。それは「制作への熱量」で決まると私は思っています。 手仕事のむづかしいところは、手仕事だから自動的に色気のある仕事にはならず、手仕事の精度が上がれば上がるほど、機械でやったように仕上がる傾向があるところです

汎用性のあるものは強い個性を持っている

私の制作する着物や帯、その他染色品は、一見、個性的で使いにくい、他のものと合わせにくいのではないか?と思われることが多いようです。 なので「気になるけども、購入に踏み出せない」という方もいらっしゃいます。 しかし、ユーザになられた方々の多くは「これほど汎用性のある着物や帯は無い」とおっしゃって下さいます。 「個性的だけども、いろいろなものと合わせて引き立て合うもの」 というのは一見矛盾することですが、実際には「それが当たり前」なのです。 着物や帯は、基本的にそれ単体

工房で制作する染色品の色彩について

フォリア(当工房)で制作している染色品の色味は、非常に渋い色調から、草木染のようなナチュラル系の色調、西洋系ハイファッション系の色から、ケミカルな色まで幅広く使いこなしますので、業界の詳しい方々は「色に困るとフォリアへ」ということでご注文をいただくことが多いです。(他所では断られるような変わった素材なども良くご相談いただきます) 染料も、化学染料、天然染料どちらも使いますし、顔料や墨も使います。 フォリアでは、いろいろな色を使いますが、私が常に気をつけていることは「その色

絶対的に正しい色は存在しない

何かを制作するにあたって、そこに使う色はあらゆる選択肢がありますが、私は色というのは、最終的には「コミュニケーションの手段である」と思っています。 色は、その場の光によってまるで違うように見えます。 青が緑になってしまうぐらいに、光で変わります。 それと「眼の個体差」の問題も大きなものです。 人の眼は、それぞれの特性を持っていて、同じ色を同時に見ていても同じように色が見えていないのです。意外なほど個体差があります。 色に関わる仕事をしていると「いかに人によって眼その

プロの仕事に偶然などないですよ

上の写真の布は、イラクサの布に、ロウを使った染色技法で独特のニュアンスを出したものです。 生成りの部分は、何も染めていない布のままで、金茶色のところは、ロウによって文様を染めた部分です。 まるで、硬い樹皮のような味わいが出ていますが、もちろん布ですから柔らかいです。 この仕事では、あえて何も染めていない布の部分を残し、染めることによって、まるで硬い樹皮のような味わいの部分と同時に観ていただくことによって「布の魅力の振り幅を味わっていただく」のを意図しました。布の染まって

再創作すること

以前、チェリストのパブロ・カザルスの本を読んでいたら 【クラッシック音楽は同じ曲を何度も演奏するわけだが、それは毎回「再創作」するのだ】 ということが書いてありましたが、それはいろいろなモノ作りにも通ずることだなあと、その言い回しの的確さに感心しました。 なにかしらの作品は「何度観ても新しい発見がある作品、仮に良く分からなくても、不思議と長年惹かれる作品」と「ああ、またこれね」というものに別れますね。 根本にあるアイデアや発想が、キチンと作品に盛り込まれているものは、

本当に自由なら必要な抑制が働くもの

ウチでは文様染の、例えば友禅の仕事などの場合、配色にあたって「むやみに色数を増やさないこと」と意識して仕事をします。(3〜7色が多いです。しかし結果としては多色使いに見えるそうです) 文様染の昔の名品や、名画の多くはむしろ色数が少ないものが多いです。もちろん、昔は現代のように沢山の「色」を簡単に得ることが出来なかったという理由も大きいですが、現代の眼で観るとそれは正解だったように思います。 人間の注意力はそれほど広くあるわけではなく、一度に沢山の色や形を判別出来ないのです

手作りでなければ出来ないことをやらないと

手仕事の染めと、機械の染めと、違いはいろいろありますが、 「意外なことに、手仕事の上手い仕事は、良く出来た機械製品に似る」 という事実があります。 例えば文様染の「精緻な手作り品」は、現代の良いプリントに、仕上げで少し手仕事によるブレをつくるだけで、見た目はほぼ「精緻な手作り品」と同じものが出来たりするのが、私たちのような手仕事屋には怖いのです。 手仕事には、不思議なところがあって「技術的に精緻なことを安定して出来るようになると、高度になるほど機械がやったみたいに平板

得意なことと、手慣れの危険

職人仕事において、例えば、とても細かい仕事が得意な人がいたとすると、その人にとっては、細かい仕事は苦ではないので、どんどん細かくしていきます。楽しいからです。 しかし、その手がけているものが必要な細かさを超えてしまうと、それは単にやり過ぎであって、モノを良くするために細かくする、手がけている作品が要求する細かさ、という必然から外れます。 そうなるとその細かさは「息苦しさ・ヌケの悪さ」になります。 そして、そのようなつくり手自身の楽しさ主導の制作姿勢では、その人の今までの