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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#芸術論

手作りという魔法は無い

私は、現代において「手で作る必然のあるもの」によって「いわゆる手工芸品」では到達出来ない創作性を「現出」させ、美をたたえているものを作りたいと思っています。 昔から、最上品はそうでした。 それは手作りだから良いとかそういうことは関係なく、良いのです。 昔の工芸品の素晴らしいものを、天然素材だから、手作りだから、苦労して作ったから、技術が素晴らしいからとか、そういう面で感動する人はいないと思います。 それは理由なく人々の心を打つものだから、飽きられることもなく長年ずっと

芸術という言葉は人を思考停止にする強力な呪文ではないかと思う

私は、芸術というのは、一般的な意味合いにおいての 「何やっても良い、何でもアリの自由なもの」 とは思っていません。 そういうものは、実際には自由でもなんでもないからです。 しかし、非常に浅い意味の「芸術は何やっても良い、何でもアリの自由なもの」という考えが、悪魔にかけられた呪いのように人々の思考を縛り付けているんだなあと実感する事が私の周辺で良く起こります。 イヤという程そういう経験をしましたが、そのなかの一つを紹介してみましょう・・・こんな事がありました。  *

音楽やアートの力に敵も味方も無い

良く、音楽やアートの力で世界を平和にするんだ!という話が出ますが、直接的にそうするのは不可能ですよね。 当たり前の話で。 今回は(美が宿った場合のみですが)音楽やアートは、人間の思想の違いを問題にしない、敵も味方も関係ない、何色にも染まらない強いエネルギーであり、人々の心の深いところに届きますが、だからといって人間の行動に直接作用する力は無いよ、だから逆に尊いよね、というお話です。 +++++++++++++++++++++++++ 例えば・・・反戦平和を目的にして作

現役のプロであるために必要な仕事量がある

なぜ、いろいろな分野のプロがアマチュアの人たちよりも「しぶとく上手い」かといえば、アマチュアとは圧倒的に練習量と、仕事量が違うから、というのは単純でありながら重要な理由です。 例えば工芸作家さん系で、あまりに年間の仕事量が少ない人の場合は、やっぱり腕や感性は落ちます。(そのキレの無さや、朴訥としたシロウト感が良いという方もいらっしゃるので、その存在の否定ではありません) 人が何かしら作る際に、作者の、ゆっくりのんびり楽しく仕事をしたい、みたいな都合の良い気持ちには「モノが

人為の美と自由

美を宿した人為や人造物は 時間から自由になる 経済から自由になる 個別性から自由になる その美を受けた人は 慣習で眠った感性から自由になる 美を宿した人為や人造物は自由を得る 人が自由につくったものが 自由な作品になるのではなく 人為や人造物に美が宿ると その人為や人造物が自由になり その美を受け止めた人に自由を与えるようになる 美に形は無い 美は、必ず何かを介して表れる +++++++++++++++ と、私は考えております。 今回の記事は、

私は「そこに美はあるのか?」という風にしか観ないのです

・・・という意見の方と、わたくし、今まで沢山出会ってまいりました。 しかし、私はその「いわゆる芸術・芸術家論」を支持しません。 それはあまりにも無理がある論だと思うからです。 私は自作品を販売して生活しているので「君は作品を売っているから本物の芸術家じゃないね(嘲笑)」と、私の1〜2世代前の、そんな持論を持つ人たちに良くからまれたものです。 そもそもオレは自分で純粋芸術家だなんて名乗ってないんですけど?むしろ、オレは市井のモノづくりで生活する普通のアンちゃんだと言って

伝統とは直接対峙するのが良いのです

自分のつくる和装の柄で「これがもし、洋服の柄としてついていたらどうか?」ということは良く考えます。「現代の洋服に置き換えたらダサいかも知れないけども呉服だからこれが伝統で正義」みたいな流れで私は制作しません。 伝統柄を扱う際にも、いろいろ考えます。 2000年代になってから増えた、呉服のいわゆる伝統柄を薄味にして「シュっ!」とさせたものが現代的な呉服という流れには個人的に抗う方向で行きます。 (伝統の本質と繋がっている“和装”ではなくいわゆる呉服臭のする“呉服の価値観”

色と味覚・嗅覚は良く似ています

女性ものの着物の色には、体感として「少し酸味と甘味がある」のが重要と個人的には思っています。ちょっとキュッとするような密度と刺激と潤い、そして品のある甘さが必要。 和装の場合は、和食の酢の物的な酸味。米酢的なうまみと湿度がある酸味で、香りはしとやか。 洋服の場合はピクルスの酸味。ワインビネガーやモルトビネガーの鋭さのある酸味と、華やかな香り。 男性ものだと、基本的には酸味は入れないか、少なくします。酸味が好きな男性だと酸味を多くしますが、それでも女性ものよりは少なくしま

内向きの価値観の空間が本当に苦手で・・・

私は一般に思われるよりも、いわゆる創作系のいろいろに雑食性でいろいろ楽しめるタイプなんですが、それでも「これはムリ、絶対にムリ」というものは、一応あります。 「工芸のアート志向作品」や「変に美しい(偏った)思想を表すための工芸やアート作品」だったり「内輪の価値観のみで良し悪しを決めているような工芸やアート作品」だったりする場合、その空間に入るのもムリ、っとなります。吐き気すら催すぐらいにムリです。 仮にグロ系やロリ系アートでも、ちゃんと作品として成立していれば問題なく

つくったものを社会に公開する際に責任が伴うのは当たり前

いわゆる、表現の自由、ということが良く言われますが・・・そんなことをつらつらと・・・ 自由は武器化する 例えば芸術家であるなら・・・ 充分に表現の自由があると言える日本の現状で、あまり過剰に「表現の自由」を主張する芸術家と、進歩的な方々を観ると、 いわゆる芸術家も社会生活をする、いち社会人ですから、芸術家だからなんでもアリ、とはならないのは自然ではないでしょうか?表現に特化した分野として、多少一般人よりも際どい所まで攻めるのが許されるとしても、過激な表現をしたとしても

最初から完成形があり、それを出力するだけ、が一番良い

制作で、鮮度がありながら行き届いたもの、落ちやアラの無いもの、ようするに 「魅力的でかつ落ちやアラが無いもの」 は、出来たものを修正して行くことによって、完成度が上がり、だんだんそうなって行く部分もありますが、だいたいは完成形でかなり明瞭にイメージ出来たものをスムーズに形に出来たものがそうなることが多いように個人的には思います。 仮にそれを産み出す前段階では苦労したとしても、キッカケを掴んでからは、完成形のイメージに引っ張られて行く感じで仕上がりまで自然に行った、という

ルドンの色

私が画家のオディロン・ルドンの絵を初めて観たのは、小学三年生ぐらいの時だったか・・・ 小学校の教科書だったか・・・小学校の図書館だったか・・・木炭画か、版画のモノトーンの、不気味な生き物や、室内の絵でしたが、靉光の「眼のある風景」と同じぐらい、小学三年生の私を恐怖のどん底に落とし込みました。 が、怖く気味悪いけども惹かれる、という子供には扱いきれないような感情のまましばらくし・・・ 中学生ぐらいになると、感覚も思春期になり、そういう気味悪いものも愛好するようになり、普通

資質と才能は運用する感覚で使う

noteで、#社会人1年目の私へ というテーマを募集しているのを眼にして、何か思いつくかな・・・「当時の自分を振り返って、新社会人にメッセージを」ということですが、私は初老の今もウダツが上がらず、という感覚しかないので若い人たちにどうのこうの言える事も無いのですが、自分が今までしてきた仕事の経験で至った「資質や才能についての実用的な考え」など書いてみたり・・・思いつくままダラダラ長く書きました。 追記=以前、だいたい似たような内容のことを書いていました→「使えるだけの才能が

絵を習うと失うものと、絵を習ったから描けるようになるものと

絵を習わないと描けない絵があるのと同様に、アカデミックな絵の技法や理論を学んで練習し身につけてしまうと、描けなくなってしまう絵があります。 しかし、余程の資質と才能を持っている人でない限り、技法や理論を習い身につけた方が、習わないで絵を描いているよりも、段違いに描きたいものが描けるようになります。 また、自分の絵画制作への強烈な欲求から高度な必然で身につけて行った知識や技法なら自分の感性を邪魔することはありません。 ただし「自分は好き勝手にやりたい、それがアートだ、だか