マガジンのカバー画像

創作全般の覚え書き

136
自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
運営しているクリエイター

#工芸論

手作りという魔法は無い

私は、現代において「手で作る必然のあるもの」によって「いわゆる手工芸品」では到達出来ない創作性を「現出」させ、美をたたえているものを作りたいと思っています。 昔から、最上品はそうでした。 それは手作りだから良いとかそういうことは関係なく、良いのです。 昔の工芸品の素晴らしいものを、天然素材だから、手作りだから、苦労して作ったから、技術が素晴らしいからとか、そういう面で感動する人はいないと思います。 それは理由なく人々の心を打つものだから、飽きられることもなく長年ずっと

民藝は三つに分離したと私は把握しております

「民藝」は、柳宗悦並びに賛同者の人々の発見した 価値観 / 鑑賞方法 である、と私は把握しております。 彼らはそういう発見をし、そういう創作を行ったという意味です。 それは現在でも生き続ける民藝の核心部分です。 (それについてのnoteの記事はこちら) 民藝というと「実用品である事」が強調されますが、実際にはそれは「柳宗悦とその周りの人々の美意識の下の位置に来るもの」です。 (民藝の定義) しかし、民藝において「民藝的審美性」よりも「実用品である事」の方が優先事項

モノの肉体的実用性が失われても審美性が残る=審美性は実用的で寿命が長く強い

わたくし、このところ民藝系の話題を連投しております。 久しぶりに日本民藝館に行きました 無銘性について 民藝は三つに分離したと私は把握しております 民藝的な美を産み出すのは大変難しい 今回は、審美性についてのお話です。 * * * * * * * * * *  民藝では、 *実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。 という定義がありますが、 私は、世の中で「審美的な要素が実用性と別に語られている事」が理解出来ないの

無銘性について

民藝では「無銘性」について云々あって、 例えばこんな 【「無銘性」=無名の職人によって作られ、名を上げるための仕事ではないこと】 民藝論の定義(?)のために、昔の民藝系の芸風の作家の作品は作品には銘を入れない、しかし自作を入れる箱の箱書きはする、なんて矛盾が起こってしまったようです。 しかし、私は民藝系の作家でも自分の作品に銘を入れても問題無いと考えます。 民藝のいくつかの宣言 自体、実際には柳宗悦自身が、それを絶対の教義みたいにはしていない わけですし・・・ 実

先日、久しぶりに日本民藝館に行きました

25年ぶりぐらいですかね。(2021年時) 工房構成員の甲斐凡子が行った事が無いと言うので、生地の仕入れのついでに久々に行きました。 改修工事をしたらしく、建物が新しくなっておりました。 靴を脱がずに、ビニールの靴カバーをして入館する方式になっているのは、ちょっと面倒ですけども清潔でいいなと思いました。トイレでは「靴の上に靴カバーを着けたまま履ける巨大なサンダル」が用意されているのに感心しました。 それと、館内の案内や説明書きのほぼ全てが「民藝館フォント」になっている

レ点方式の採点では測れないもの

生き物に対しての良し悪しの判断は「レ点方式では“採点”は出来るが“良否の判断”は出来ない」というのがありますね。 生き物は、欠点こそが魅力になったりもしますから。 例えば、ダメ猫、ブサ猫だからこそ、何とも魅力的なんて事が普通にあります。 なのに、レ点方式で人だけでなく、生き物である作品、製品を判断してしまうことは良くあります。 そういう姿勢で、ものづくりをすると「美人ではあるけどナゼか魅力を感じない人」みたいなものが出来上がってしまいます。 例えば「演奏技術

現役のプロであるために必要な仕事量がある

なぜ、いろいろな分野のプロがアマチュアの人たちよりも「しぶとく上手い」かといえば、アマチュアとは圧倒的に練習量と、仕事量が違うから、というのは単純でありながら重要な理由です。 例えば工芸作家さん系で、あまりに年間の仕事量が少ない人の場合は、やっぱり腕や感性は落ちます。(そのキレの無さや、朴訥としたシロウト感が良いという方もいらっしゃるので、その存在の否定ではありません) 人が何かしら作る際に、作者の、ゆっくりのんびり楽しく仕事をしたい、みたいな都合の良い気持ちには「モノが

人為の美と自由

美を宿した人為や人造物は 時間から自由になる 経済から自由になる 個別性から自由になる その美を受けた人は 慣習で眠った感性から自由になる 美を宿した人為や人造物は自由を得る 人が自由につくったものが 自由な作品になるのではなく 人為や人造物に美が宿ると その人為や人造物が自由になり その美を受け止めた人に自由を与えるようになる 美に形は無い 美は、必ず何かを介して表れる +++++++++++++++ と、私は考えております。 今回の記事は、

私は「そこに美はあるのか?」という風にしか観ないのです

・・・という意見の方と、わたくし、今まで沢山出会ってまいりました。 しかし、私はその「いわゆる芸術・芸術家論」を支持しません。 それはあまりにも無理がある論だと思うからです。 私は自作品を販売して生活しているので「君は作品を売っているから本物の芸術家じゃないね(嘲笑)」と、私の1〜2世代前の、そんな持論を持つ人たちに良くからまれたものです。 そもそもオレは自分で純粋芸術家だなんて名乗ってないんですけど?むしろ、オレは市井のモノづくりで生活する普通のアンちゃんだと言って

伝統とは直接対峙するのが良いのです

自分のつくる和装の柄で「これがもし、洋服の柄としてついていたらどうか?」ということは良く考えます。「現代の洋服に置き換えたらダサいかも知れないけども呉服だからこれが伝統で正義」みたいな流れで私は制作しません。 伝統柄を扱う際にも、いろいろ考えます。 2000年代になってから増えた、呉服のいわゆる伝統柄を薄味にして「シュっ!」とさせたものが現代的な呉服という流れには個人的に抗う方向で行きます。 (伝統の本質と繋がっている“和装”ではなくいわゆる呉服臭のする“呉服の価値観”

色と味覚・嗅覚は良く似ています

女性ものの着物の色には、体感として「少し酸味と甘味がある」のが重要と個人的には思っています。ちょっとキュッとするような密度と刺激と潤い、そして品のある甘さが必要。 和装の場合は、和食の酢の物的な酸味。米酢的なうまみと湿度がある酸味で、香りはしとやか。 洋服の場合はピクルスの酸味。ワインビネガーやモルトビネガーの鋭さのある酸味と、華やかな香り。 男性ものだと、基本的には酸味は入れないか、少なくします。酸味が好きな男性だと酸味を多くしますが、それでも女性ものよりは少なくしま

内向きの価値観の空間が本当に苦手で・・・

私は一般に思われるよりも、いわゆる創作系のいろいろに雑食性でいろいろ楽しめるタイプなんですが、それでも「これはムリ、絶対にムリ」というものは、一応あります。 「工芸のアート志向作品」や「変に美しい(偏った)思想を表すための工芸やアート作品」だったり「内輪の価値観のみで良し悪しを決めているような工芸やアート作品」だったりする場合、その空間に入るのもムリ、っとなります。吐き気すら催すぐらいにムリです。 仮にグロ系やロリ系アートでも、ちゃんと作品として成立していれば問題なく

つくったものを社会に公開する際に責任が伴うのは当たり前

いわゆる、表現の自由、ということが良く言われますが・・・そんなことをつらつらと・・・ 自由は武器化する 例えば芸術家であるなら・・・ 充分に表現の自由があると言える日本の現状で、あまり過剰に「表現の自由」を主張する芸術家と、進歩的な方々を観ると、 いわゆる芸術家も社会生活をする、いち社会人ですから、芸術家だからなんでもアリ、とはならないのは自然ではないでしょうか?表現に特化した分野として、多少一般人よりも際どい所まで攻めるのが許されるとしても、過激な表現をしたとしても

最初から完成形があり、それを出力するだけ、が一番良い

制作で、鮮度がありながら行き届いたもの、落ちやアラの無いもの、ようするに 「魅力的でかつ落ちやアラが無いもの」 は、出来たものを修正して行くことによって、完成度が上がり、だんだんそうなって行く部分もありますが、だいたいは完成形でかなり明瞭にイメージ出来たものをスムーズに形に出来たものがそうなることが多いように個人的には思います。 仮にそれを産み出す前段階では苦労したとしても、キッカケを掴んでからは、完成形のイメージに引っ張られて行く感じで仕上がりまで自然に行った、という