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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#染色工芸

化学染料と、天然染料で、望む色を出す際の感覚的な違い

布に色を染める際には、大雑把にいって、化学染料と天然染料のどちらかを使います。殆どが化学染料ですが・・・ 当工房では両方使います。 で、それぞれ、扱う際の感覚的違いがあります。 化学染料にはいろいろな種類と染め方があり、天然染料でも同じですが、大雑把に私の感覚的にはこんな感じ・・・  * * * * * 化学染料の酸性染料や直接染料で色を決める際の調合の感覚は、個人的にはカクテルを作る時と似ています。 酒の組み合わせによる、足し算を超えた変化、1滴のビターズの劇的

古典の資料から文様を起こす時に気をつけること

古典の資料を使って文様を起こす場合、現代的な視点を古典文様のどこにフォーカスしてその古典文様の魅力の本質を汲み取り形にするか、ということが大切だと思います。 そこに気をつけないと、形式だけ似ている(しかもその形式も同じというわけではない)ヘンにこじんまりとした「間違ってはいないけども面白くもない仕事」になります。 それは「似て非なるもの」亜種のようなものになってしまいます。 古典の現物は良い意味でガサツであったり、良い意味で異様に細かい部分があり、素材や加工のメリハリが

作品の自由さ

良く自由に制作するとか言われますが、基本的に作品は、自らの意図や姿勢や考えからさえ、自由であるべきだと私は思います。 自らの意図、姿勢、考えの表明が作品制作の主眼であるなら、それは取り扱い説明書のようなもので、そこには新鮮さはなく、創作性もなく、ただの自己確認のためと、閉じた精神を持つ個人の感受性の吐露しかないと思うのです。 それは全て過去に軸足を置いた、例えるならずっと水の入れ替わらない沼のようなものです・・・それが思想と呼ぶのであれば、私には思想はありませんし、そ

摂理と意図

何か、世の中では「芸術は人為的な激しいもの、バランスが崩れたもの、特異なもの、異常なもの」という偏見があるような気がします。 しかし現実には「完全な摂理」ほど過激なものはありません。 自然物の存在、成り立ち、自然現象は例外なく人間の想像、創作を遥かに超えてしまうのですから。 逆に言えば人間のしていることは、その摂理に参加させてもらいながら、人間の生命の雑音を産み出すことなのかも知れません。 「生命の雑音」は魅力的で色褪せることは無いので良いのですが、私は「思想」「文脈

舞い降りて来るものを検証する

いわゆるインスピレーション、舞い降りて来るものは、含まれる内容とは無関係に、受け止めた時の感覚自体に、強い弱いがあります。 囁き声のような微弱電波に、豊かなものが入っていることがあるし、落雷のような衝撃を受けても、それはただの衝撃だけで中身が入っていないこともあります。 普通に、受け止めた時の感覚通り、微弱電波の中身には殆ど使えないような小さなものしか入っておらず、落雷のような衝撃の中身に、使い切れないほどの中身が入っていることもあります。 そのように、舞い降りて来るも

デッサンはある意味瞑想なのである

最近、初期仏教系の本をアマゾンオーディブルで聴いているのですが、瞑想の方法などいろいろ出てきて面白いのです。 自分の内部、外部に表れるもの全てに気づき、肉体の状況にも気づき、眺め、眼前の世界の明瞭な体感と発見、外部から内部に内部から外部へ、そして全体の統合と区切りのない感覚に。。。 そうは言っても私には、宗教的な瞑想は分かりませんが、いろいろな分野の宗教で瞑想的なことは行われるようですね。 私はいわゆる今どきのスピリチュアル系のものには近寄りませんが。。。。 それはと

仕上げすぎないのも職人の腕

私は、技術や観察眼が未熟な職人仕事は嫌いですが(そのヘタさを作家性だとか個性とか主張するのも大嫌い)だからといって、必要以上に「仕上げ過ぎてしまう」のも、使う素材の力を弱めてしまうので注意が必要と考えています。 それはあらゆるモノ作りに言えることですが、特に工芸品や料理は、必ず、使う素材や技法の制約を強く受け、かつ、その制約はその工芸品や料理特有の魅力でもあるので、それが目立ちます。 工芸品や料理は、いわゆるアート作品と違って常に完成品でなければならない、という命題があり

伝統の骨格が無いと制作物が観念的になってどうどう巡りになり勝ち

古いものを否定して新しいものを表現するぜ! というのはどこの文化にもありますが、なんだかんだいって、西洋系は日本よりも伝統が身近にあるので「実際に古典を否定して新しいことをしている=結局古典がベースになる」という感じに観えます。 だから、一見、破壊的なものでも、スジが通っているものが多かったり。 一見「何やってんだ?この人達。。。」という意味不明な作品でも、背景にある理論的な部分、文脈などを知ると、一見デタラメに観えるものが実はちゃんとした真面目な表現であることを知った

制作において制作者のみ理解出来るような繊細なことの殆どは相手に伝達されない

文様染や、織物などで、また、料理などで良くある失敗は 「作り手視点の、こだわりの繊細な表現を、その作品の個性・主題としてしまうと、観る人にそれは殆ど伝達されていない」 ということです。 例えば、文様染の友禅染で、制作者自身と、その工房の人なら分かるような、ちょっとした違いを喜び、それを作品化してしまったものは、展示会でそれを観る人には分かりません。 しかし、作り手は自分の制作の過程を体験しているので、それが観えているわけです。 また、作り手は、受け手よりもずっと自分

売れ線なんて狙って出来るもんじゃない

(画像・染額「月の舟に恵の雨が降る」) 技術や知識やキャリアのある人などは「あー、あの手の売れ線ね」なんて、まるで自分の技術や知識があれば、あんなものは簡単だ、オレは売れ線を出来るけど、アーティストとしての矜持でやらないだけ、なんて世間で売れているものなどをクサしますが、実際にはこれはそんな簡単に行かないんですよね。 例えば、売れっ子のプロジェクトに、技術や知識や経験がある人が参加したとしたら「こんなもん、チョロい」と思ったりします。 自分ならもっと質の良いもので、

色を染める際に意識するべきこと

染め物で、何か色を染めるに際して・・・ 薄い色を染めるにあたっては「ただ色が薄い」色ではダメなのです。 色をつくることと、料理の味を決めることは良く似ているので、料理の味で例えると・・・ 薄い色の場合、例えば、薄味のお吸い物で、塩味は薄めの味わいだけども、出汁の味わいがしっかり深いような、そういう薄色にしなければダメなのです。 (もちろん出汁を濃くすれば良い、という意味ではなく、出汁と調味料と具材のバランスが取れていなければなりません) 例えば、草木染で染める場合に

よろけとゆらぎ

「よろけ」と「ゆらぎ」。。。 似ているようで違うような。。。 ・・・私はこんな風に染の仕事で使い分けています。 上の写真は名古屋帯です。 インドの古典の手描き縞を、日本の染色技法の糸目糊と、ロウでもっと繊細な感じにつくったものです。 下の画像が元ネタです。日本名で「有平縞」と呼ばれるものです。 元になった更紗はインドのものなので、かなりゆるゆるです。ロウで描いた縞です。このゆるさが良いのですね。緻密なようでゆるゆる、ゆるゆるなようで緻密で、さらにいろいろなニュアン

衣服の変容が起こったのは日本だけではない

は、現代の日本人が和服を着ないのはおかしい、と言われることに納得がいかないのです。 世の中では、少なくとも日本では、日本人は和服を着るべし!と主張する人は、洋服は昔からずっと現代の形だと思っているんじゃないのか?と疑問に思ってしまうのです。そんなわけがないですよね。 ヨーロッパの衣服でも、近代以前の衣服と同じ形、素材の物を今着ている人はいないでしょう?地域の伝統文化的なお祭りの用途があるとか、あえてコスプレする意図以外には。 例えばドイツのオクトーバーフェストで昔の衣装