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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#伝統工芸

民藝については、父・宗悦、息子・宗理の両方の書籍と実績を確認すると理解が深まる

民藝を把握するには、柳宗悦氏だけでなく、息子さんの工業デザイナー柳宗理氏の両者の業績の確認と、彼らが残した文章をしっかり読むと良いと思います 宗理氏の文章はとても上手く、かつ的を射ており(例えば「柳宗理 エッセイ」という本は必読です)父の宗悦が活躍していた時代からしばらくして問題化した事、民藝について宗悦自身は語りきれていない事、幼少期から知っている民藝運動界隈の主要作家の事などを息子が父とは違う視座から補完している感じです それと民藝論は、宗悦の初期の提言を経典としては

伝統工芸において明治以降の偉いとされている人ばかりを参考にしても伝統から学んだ事にならないですよね

私は、染の着物や帯の文様染色の製造卸販売をメインの生業にしております。ですので東京在住の私は東京国立博物館の常設展に良く行きます。工房構成員には年パスを配布します。工房を東博の隣にしたいぐらいに、それは身近であり、その収蔵物はある意味師匠であり、それを制作した人々に同志という感覚を持ちます。 しかし、私よりも年長の模様師たち(和装の文様を加工する職人)・・・いや同世代や年下の人たちもそうですが、模様師だけでなく和装制作系の全般、いや呉服業界全般か・・・大手美術団体系の展示会

化学染料と天然染料のどちらも、ただの染料ですよ

このnoteで繰り返し書いている事ですが・・・ 当工房は生業としては和装染色品の製造卸販売をメインにしておりますので色々な種類の染料や顔料を使って仕事をします。 染色加工には化学染料も天然染料も使いますが、いわゆる草木染に変なロマンを感じて使っているわけではありません。作りたい作品によって天然染料の方が相応しいとか、お客さまからのご要望だから使うとか、必要に応じて使い分けるだけであり、それ以上の意味はありません。色々な選択肢のある現代において「単に染料の一種」として使って

今、現代美術とされている分野はゲームに似ていると思う

普通一般の人々が思い浮かべる「現代美術」というものは、その時代の「前衛」のような、まだ形式や評価が定まっていないものから、先進的かつ既に社会に受け入れられ機能しているものまでを含めた「新しいものを作り出そうとする意欲の強い、実験的要素も含む、今出来の表現物の事を特に分類して現代美術と呼ぶ」・・・そんな感じではないでしょうか。 私も含めた一般社会人にとってはそれで充分ですし、それで日常生活に困る事はありません。 * * * * * * * *  何かしらの創作様式や作品が

いつも全力でやらないとスグに堕ちて行きます

職人仕事・・・職人に限らず仕事人は、いつも100%からそれ以上の意識を持って仕事をしていないとスグに腕が落ちてしまいますよね。 修行中、あるいは独立してからでも、いつも自分よりも上のレベルの人がいる環境にいた人であっても自分ひとりになると途端に「現状の本来の自分」に戻ってしまう人が多い。上の人がいる時は、強制的に引き上げられているわけです。もちろん、逆に制約が無くなった事により修行中よりも厳しく仕事場をつくり、仕事自体も、より高度に成長させる人もおりますが・・・ ビジネス

民藝館と現代の民藝

「民藝品は民衆の健やかな日常生活のためのもの」という定義であるなら、民藝館のミュージアムショップで販売されている商品は、民藝館の収蔵品と同レベルのものでなければならない。少なくとも同じ波長を持つものでなければならない しかし実際には全く違う質のものであるから、現状では民藝館自体が、民藝論にある矛盾を証明する存在になっているのではないだろうか * * * * * * * *  晩年の柳宗悦氏は、当時の民藝品の質の低下についての警句を強い調子で著書に書き残している。創始者の

絵画と文様の違い

芸術とデザインの話はこのnoteに書いた事がありますが (下のリンクの記事の、中頃あたりからその話題になっています) 以下のリンクでは「工芸品と芸術品の違い」などを書いております。 が、「絵画と文様の違い」の話題は書いた事が無かったので書いてみました。 例えば、絵画なのに文様みたいな絵を描く人がおります・・・例を挙げればマティスや熊谷守一の絵は、作品によっては平面的で文様みたいな感じがあります。 また、マティスや熊谷守一の絵は、デザイン素材としても大変素晴らしく汎用性

技術と表現力のお話

人の観察眼などアテにならないものだ、と私は良く思います。もちろん私のそれも含めてです。しかし、そういうブレや適当さもまた、人為と人工物の面白さと思ったりもします。 何かしらの創作物が持つ表現力は「作者の技術の分だけしか出力されない」というのは当然の話なのですが、これが意外に人々に理解されていないのを経験上強く感じます。 細かく言えば、表現分野についてだけは、ナゼか魔法の世界だと思われているというか、魔法の世界と信じたい感じというか・・・ 【職人技術は長年の修練と学習が必

江戸組紐の老舗“中村 正”さんを訪ねました

先日、松戸市内で130年続く江戸組紐の老舗「江戸組紐 中村正」(なかむら しょう)の四代目、中村航太さん(なかむら こうた)さんを訪ねました。 分かりやすく言いますと、現代においては着物を着用するのに使う「帯締め」「羽織紐」などをメインに制作する工房です。(刀の拵えや茶道具系でも組紐は多く使われますので、そのようなものも制作する事があるそうです) 四代目の代表・中村航太さんは工房運営と同時に、ご自分の組紐作品も発表しており、創作活動も盛んにされております。 我がフォリア

「新しさ・伝統・民藝」などの覚え書き

新しさについて 何かの極点に達したものは、両極端の性質を同時に持つ気がします。 円を描くのに、描き始めから描き終わりで線が接すると、その点は、描き始めの地点であり、描き終わりの地点でもあるような感じ・・・ * * * * * * * *  伝統の根幹部分 「伝統」には現実的な実質があります・・・それは伝説や中身の無い権威ではなく、現実です。 だから、現代生活にも機能し続けるわけです。 とはいえ、闇雲に「昔の人はみんな凄かった」と単純に把握するのは良くないと私は考

私は伝統的とされる日本的な色味も、時代によって変わると考えております

このnoteに何度か書いております通り、私は日本的な色味というのは「わずかな濁りや茶色成分を含む、湿度のある色」と考えております。 これは、私の実際の創作上の経験や、伝統のものや現代日本にある“モノや現象”への観察によるもので、どこかの誰かの意見ではありません。ですので、他の人はそう考えないかも知れませんが・・・ そもそも、色は絶対のものではなく、眼や脳が違えば、見えている色は人によってかなり違うものですし、何かの色を見た残像で、今見ている色は変わってしまうものです。味や

新酒を作る事無く未来の熟成酒を語る愚

例えば、美味しい熟成シングルモルトスコッチを伝統文化系に例えてみると、常に次に出荷するための新酒を仕込んでおかなければならない=常に未来の熟練職人となる若い人たちを入れて育成し続けていなければならない、という事は誰でも納得される事と思います。 そうしないと次の12年もののシングルモルト、あるいはもっと古いもの・・・が出せなくなってしまうのは当然ですから。 もし新酒の仕込みをしない醸造所が「伝統的な本物のシングルモルトの未来」を語ったら、その醸造所の代表は狂っていると思うで

手作りという魔法は無い

私は、現代において「手で作る必然のあるもの」によって「いわゆる手工芸品」では到達出来ない創作性を「現出」させ、美をたたえているものを作りたいと思っています。 昔から、最上品はそうでした。 それは手作りだから良いとかそういうことは関係なく、良いのです。 昔の工芸品の素晴らしいものを、天然素材だから、手作りだから、苦労して作ったから、技術が素晴らしいからとか、そういう面で感動する人はいないと思います。 それは理由なく人々の心を打つものだから、飽きられることもなく長年ずっと

当工房の、作品制作の進行方法、並びに展示会の際の仕事の進め方

今回は、当工房「Foglia フォリア」では、日常の作品制作並びに個展や展示会用の作品を制作する際に、どのように仕事を進めて行くかを説明してみます。 (フォリアは和装染色品と絵画の制作・販売を行っております) なるべく具体的に書こう・・・と書き連ねていたら、長くなってしまいました・・・ それはともかく、 個展等で、まとめて作品制作する際には「日常制作しているものを溜めておいて出品する」のではなく、コンセプトを決めたり、時流を測った上で、テーマを決め、制作する事が多いで