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工芸品に限らず、創作物全体に対して、個人的に思う事ですが 作物の底に「自分以外の存在に対する祈り」のあるものが良いです それは大それたものではなく、高尚なものでもなく、素朴で素直で健康的な・・・人間が自然に持つタイプのもの 人の存在、人の生活、自然・・・自分だけではない他者への祈り 作る人の祈り、使う人の祈り、そのどちらも受け止める事が出来る「どちらの祈りも受け止める存在」であるものが良いなあと、私は特に最近感じます。不景気やコロナ、戦争・・・のせいで余計にそう感じる
柳宗悦は、当時は審美的な価値が無いとされた雑器などに「民藝」という概念を創出し、その美を世に解き放った大功労者です。 しかし、柳の民藝論や実際の活動や晩年の著作などを観ると、私は民藝論に矛盾を感じます。 晩年の名著とされている「美の法門」を読むと「美醜の区別を超越したところに芸術というものがある」としていますが、柳の活動を検証したり著作を読むと実際には理論的にも実質的にも「民藝美が至高」となっています。 もちろん、単なる個人の嗜好として民藝こそ至高、とするのは問題無いと
私は美を以下のように把握しております。 これはいわゆる学術的な美学に依存しない美の把握方法です。これは誰かの考えの踏襲ではなく、自分の目と精神による観察+この考えによる長年の行動+検証によって導かれたものですので、創作関係だけではなく、日常生活のなかで「実質的に機能する美の把握方法」と思っております。 ここで言う美は、きれいとか、美醜面の美しさ、というものではありません。芸術界隈の特別な何かではなく、美は実はどこにでもあります。自然のなかには必ず、人為・人造物のなかには時
先日、久しぶりにフランス料理界隈の情報をネットで観てみたのですが、やっぱり先端の料理人、お店は大変ですね・・・ 1990〜2000年ぐらいの最先端は、今は「ビミョーに遅れた老巨匠」扱いだったり・・・お寿司もそうですけども。 現代は、食材の流通や保存技術、調理技術の進化も早いですし、ワインもいろいろ進化していますし、グルメたちは評判の店をぐるぐる回っていて、ブログなどでその感想を公開したりなど、批評的感性も鍛えていますから料理を提供する側は大変です。 昔は最高に美味しいと