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わたしは下女じゃない

明治生まれの父方の曾祖母は、第一子を置いて離婚し、わたしの曽祖父にあたる男性(先妻が病死)と再婚して五人の子供を産んだ。

かわいがってくれたひいおばあちゃんにもう一度会うことができたら、どんなことを話すだろう。

 

「離婚」という言葉を武器に使ったことがある。

 

中学生の頃のわたしは非常に不安定だった。家庭にも、塾にも、学校にも、心穏やかに過ごせる場所はどこにもなかった。薄汚いグループのなかで、お互いの毒を集めて猛毒を製造するようなことばかりしていた。

そのさなか、当時好きだった男の子との関係を維持するために、彼の前で、彼が嫌っていた同級生の女の子の家庭事情について悪口を言った。彼女の両親は離婚していた。言った瞬間、とてつもない爽快感と共に、自分の身体がどす黒く変色してゆくような感覚を覚えた。

離れていった友人たちもいた。当然のことだ。しかしそれが何故なのか、何年もたつまで気付かなかった。

 

いま、わたしはかつての自分の行いを猛烈に恥じている。

ZINE「離婚って、ふしあわせ?」のみなさんの文章を読んで感じたのは、結婚がそうであるように、離婚もまた、あくまでも人生の選択肢のひとつということだ。しかも、その先によりよい未来を築くための。若林理央さんは「考え抜いて納得したのであれば、たとえ傷を負っても、それはその人にとって最良の選択」だと書いている。

 

だから、離婚に対する先入観を一旦排除して、機が熟しているのなら、「その人にとって離婚とはどういうものだったか」について、ちゃんと耳を傾けるべきなのじゃないかと考えた。

中学生のわたしは、どっちでもいい男の子との取るに足りない関係性を維持するくらいだったら、彼女ともっと話しをすべきだったのだ。別に家庭環境のことについてじゃなくても、放課後わたしと同じようにテレビで昔の刑事ドラマの再放送を見ていて、「藤田まことっていいよね!」と言い合っていた彼女と、もっとそういう話しを。

 

当面、2018年に結婚した夫と離婚の予定はない。まだ子供が小さいせいもある。

(とはいえ、COOKIEHEADさんが書くように「子は、結晶でもなければその失敗作でもないし、鎹でもなければ鉄クズでもない。自分はそのどれなんだろうなんて、子に考えさせてはいけない。」ということを肝に銘じたい。)

少なくともわたしは、今は男女というより、育児の共同作業者として、戦略的に(仕方なく?)夫と暮らすことを選んでいるような感覚がある。

 

しかし、将来離婚という選択をする可能性も全くゼロではない。例えば「わたしの離婚」がひとつの旗だったとしたら、時々はためくことはある。ZINEを読みながら、風を感じる箇所がいくつもあった。

例えば、井元あやさんの「『夫のケアをする妻』という社会に刷り込まれた図式を、知らず知らずのうちに内面化、実行していた」という経験や、共依存、カサンドラ症候群、マンスプレイニングといったキーワードに。
イヌコさんの「長く生活をともにするなかでは、相手と性の不一致が起こらない方が珍しいのではないか?」という疑問に(本当にそう!)。
京極祥江さんが書く、離婚後の「家の中に不機嫌な人がいない、不機嫌な人の世話をしなくていい、なんでも自分ひとりで決めていい」という生活に。

巻末のKanin店主さんお二人の対談にあった「結婚している人たちは、結婚生活に向き合ってますか?」という投げ掛けは、特に強く心に残った。

 

母方の祖母が「わたしは下女じゃないよッ!」と怒鳴ったことがある。

 

母が祖父に譲った小さな自家用車の、運転席には祖父が、助手席には祖母が、後部座席には十代だったわたしが乗っていた。祖父が何やら指図したことに腹を立てた祖母は、猛然とそう言い返した。言い返されるなり、祖父はフロントガラスが大破しそうなボリュームで「なんて口の聞き方するだあ!」と怒鳴った。車は一瞬蛇行した。すかさず祖母が「ごまヲが乗ってるんだよ!」と叫ぶと、蛇行は止まり、車内は水を打ったように静まり返った。今は旧道になっている高速道路の側道でのこと。ガードレールの下は崖だった。

 

昭和一桁生まれには珍しく、祖父は子供のオムツを替えたり、ミルクをあげたり、離乳食を作ったり、料理をしたり掃除洗濯をしたりと、当たり前のように家事育児をする人で、周囲からは珍しがられていた。一方で、機嫌を損ねると妻や娘たちに情け容赦なく手をあげる人でもあった。

「先立つものだってちゃんとあったんだから、若いうちに離婚しておけばよかったのに」と嘆く母の身体には、父親から受けた暴力の傷跡が残っていた。母はテレビで映画「男はつらいよ」が始まると、あからさまに顔をしかめた。久しぶりに葛飾柴又の団子屋へ帰ってきた寅次郎が、親族やご近所さんとトラブルを起こして取っ組み合いの喧嘩をする様が、かつての家庭内暴力の光景を思い出させて耐えられない、なにが男はつらいよだ、というのがその理由だった。

 

祖母も、同世代の女性には珍しく安定した職業を持っていて、十分な稼ぎがあった。だが祖母は、その全てを祖父に預けなければならなかった。母はよく「こんなに苦労して、多分おばあちゃんはおじいちゃんより先に死んじゃうよ」とも言っていた。

でも、先に亡くなったのは祖父だった。心臓の病気で、急死だった。それをきっかけに、元々ぎくしゃくしていた母の親族の人間関係は完全に崩れ去った。

 

今年94歳の祖母は、施設で穏やかな日々を送っている。

 

もし本当に祖母が離婚していたとしたら、祖母や、母や、母の妹にはどんな未来があったのだろう。孫であるわたしに対しては、ガミガミ口うるさく怒りこそすれ、ほとんど手を上げなかった祖父だったが、記憶に残る唯一のゲンコツは涙がにじむほど痛かった。あのゲンコツの代わりに降るべきものがあったとしたら、それは何だったのだろう。

 

祖母や母の思い出話のなかで、すっかり「いい人」になってしまった祖父。「それでも、かつてのあなたの行為は間違ってたんじゃないの、じい」と、胸の中で呼び掛ける。

呑気そうなわたしと祖父母

「わたしは下女じゃない」と怒鳴った祖母。もっと若い頃は、そうやって反論しては祖父に殴られていたのだろう。娘たちをかばって殴られたこともあっただろう。その姿は、雇い主の良いように使われ、時には性すら脅かされた女たちに似ていたということだろうか。先日読み返した佐多稲子の短編小説「水」を思い出す。

 

幸い、いま身近に暴力はないし、夫は比較的優しい人間のほうだと信じているけれど。

わたしも下女じゃない。家の、夫の都合のいい召し使いじゃない。奴隷でもない。
いざという時、祖母のように言い返せるだろうか。のっぺりした日常のなかから、再び自分の足で歩きだせるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

🍩食べたい‼️