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BEARー悲しみと成長

結婚式当日、母は、一体の古びたティディベアをウェディングドレス姿の私に向かって差し出した。「ウワッ、嫌だな」と思ったが、晴れの日を親子喧嘩で汚すつもりもなかった。「え~何~?」などとおどけつつ、素直にベアを受け取り記念撮影に応じた。

もう2年前になるこのシーンは、モヤモヤした1つの記憶が華麗に宙返りし、審査員全員満点の見事な着地を決めた瞬間だったと思う。

「ハチ」という名前のティディベアを持っていた。
ハチは私が物心つくかつかないかの頃、都内のおもちゃ屋の福引で母が引き当てた。生まれたての赤ちゃん位のサイズで、クリーム色のモヘアの体毛が植えてある。真っ赤なガラスの目に、きょとんとした表情。
最初私はこの赤い目を怖がって泣いたそうだが、次第に慣れ、ハチは兄弟がいない私の親友になった。
ハチは、実はイギリスのティディベアメーカー製造の由緒あるクマなのだが、グランドピアノの上で座っているだけ、などということはなく(そもそも我が家にグランドピアノはない)、ままごとの相手をさせられたり、折り紙で仮装させられたり、時には家族旅行に同行したりと、日本の庶民生活に付き合わされ尽くしていた。
ハチの存在が影響して、我が家は何かと「クマ」を贔屓しがちな一家になった。動物番組では冬眠から覚めた子熊のあどけなさを絶賛したし、町内に出没したクマが猟友会に仕留められたというニュースを見ては「かわいそうに」とクマの肩を持った。

いつしかハチは、私の宣言により、何体かいる我が家のぬいぐるみたちの「王様」という設定になった。強く、心優しく、物知りで、ぬいぐるみ界の大学院を飛び級で卒業…小さなノートにハチの「設定集」を書き溜めていたこともある。
今思えば恥ずかしいことだが、大人が喜ぶ理想像を、そして自分の姿を、小さなティディベアに投影していたのだと思う。

当時、強く恐れていたことがある。
クラシカルなティディベアの関節には「ジョイント」と呼ばれるドーナツ型の部品がついている。「ジョイント」のおかげでベアの首や手足が動き、たたずまいに表情をつけることができるのだが、もしこのジョイントが水濡れや経年劣化でダメージを受けると、関節が外れてしまう。
自宅にあったティディベア図鑑には、水洗いの悲劇により首と胴が完全に外れ、生首状態になったベアの哀れな写真が掲載されていた。
「ハチの首が取れてしまったらどうしよう」
もう一緒に旅行へは行けないし、修理にはハチの生まれ故郷イギリスへ送らねばならないと聞いていた。修理の間、長期間にわたりハチを手放さなければならなくなる…考えるたびに恐ろしくてたまらなかった。
「ハチを助ける」という名目で、首に10円玉を仕込む「手術」を行ったこともあった。
自分をハチに重ねてもいたから、自分の死や、家族と引き離されることに対する怖さもあったかもしれない。
今もそうだが、未来のことを色々想像しては不安になる子供だったのだ。

小学生の時、学習塾に入った。
その日の単元は英会話、課題は「What is your favorite…?」(あなたの好きな…は何ですか?)という構文。自分の好きな動物を英語で言うという課題が出て、テーブルの端に座っている子から順に、好きな動物を日本語で言い、英語で何というか教わる作業が始まった。
うさぎ(rabitt)、さる(monkey)、ぞう(elephant)などの動物が登場する中、私の番になった。教師がたずねる。
「What is your favorite animal?」
迷いはなかった。
「クマです。」
答えるや否や、教師の表情に軽蔑の色が灯った。
「クマはbear。だけどお前が好きなのはティディベアとかそういう可愛いやつだろう?本当のbearっていうのは、森にいて人を襲ってくる怖いbearのことだぞ。だよな?」
教師はそう笑って他の生徒に同意を求めた。

好きなものにケチをつけられた。現実を突きつけるという正義をふりかざされた。それが悔しくて悲しかった。うさぎ、さる、ぞうの時は何も言われなかったのに。
当然、その頃には知っているつもりだった。家にいるティディベアと森にいるクマが全く違うものであることなんて。ティディベアは襲ってこないし、森のクマを抱っこしようとしたら殺されかねない。
それでも私は「じゃあ無難にとら(tiger)で」なんて空気を読むことはせず、かたくなに「My favorite animal is a bear.」と答え続けた。そういう態度が教師の気に障ったのだろう、学習塾ではあまりいい思い出がないのだが、今回の趣旨と外れるので話すのはやめておく。


ハチに会わなくなって久しい。最近ではごくたまにしか実家へ帰らなくなったからだ。ハチの首はいまだに取れていない。そして、もうそれを恐れてもいない。
今、最もハチと親しいのは母だろう。「実家にいた頃の素直な娘」の記憶を懐かしんでハチを引き合いに出してくる。だから、結婚式で母がハチを差し出してきた時、私は嫌悪感を抱いたのだ。まるで母の中では私がいつまでも子供で、ましてや結婚なんて認めないと言われているように感じたからだ。
あんなに大事にしていたハチを、今では「ウワッ、やめてよ」と思うようになってすらいる。かといって、ハチを無残に焼き捨ててしまおうとも思わない。首が取れたら下手な英語で手紙を書いてイギリスに送り出すだろう。

ハチは幼い日々を一緒に過ごしたぬいぐるみ。今はそれ以上でもそれ以下でもない。それは私が大人になった証なのだと思いたい。
だからあの日「bearが好き」なことを馬鹿にされた傷も、今では癒えていると言って良い。

ただ「bearが好き」な気持ちを笑われたことが正しかったとは、決して思っていない。
自分が好きなものを「好き」と言うことは、口に出す出さないは別として、自分だけに決定権がある。他人が強制的に言わせたり、笑ったりしていい余地はどこにもない。
(時々自分の「好き」や「嫌い」が誰かを傷つけたり悲しませたりすることがあるからとてもとても難しいのだけれど)
勿論、他の人に言われて「確かにAではなくてBかもしれない」「私は間違っているかもしれない」と思う事は大切なプロセスだ。ただ、最終的には「自分が何を選び取るか」にかかっている。
どんなに時間がかかっても、自分が納得しさえすれば、人はいくらでも変わっていくのだと思う。

BEAR
それは悲しみと成長をくれた言葉。

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