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東京土産は「比較」
約10ヶ月ぶりに、かつて住んでいた東京へ戻り、数日間滞在した。
東京を離れた時点では、感染症流行のため町は閑散としていたが、今や、どこもかしこも賑わいの渦の中である。
かつて暮らした東京。
流行の最先端が家のすぐそばにあった東京。
好みのエンターテイメントにも、生で、簡単に触れることができた東京。
地方暮らしの今となっては、もはやテレビやネットの中にしかない東京。
久しぶりの東京で何を感じたか。
一番印象に残ったのが「自分は周囲よりもみすぼらしい格好をしているのではないかという恥じらい」の感情だった。
この10ヶ月間というもの、私は新しい服を1枚も購入していない。
古着こそ購入したものの、これで十分やってこれたのだ。
仕事をしていないため、カチッとしたスカートやズボンも、新品を買おうとは思わなかったし、そもそも履く必要さえなかった。
だから自分の体型についても、正直「ちょっと太ったな」とは感じていたものの、関心が薄れがちであった。
それが東京に行ってみたらどうだろう。
町ゆく人々の姿や身に付けているものが、手がかかっていて、小綺麗で、洗練されているように見えて仕方なかった。
なのに自分は、無職で、以前よりも太り、しかも古着しか身につけていない。
「自分は周囲と比べてどうか」ということが、とても気になった。
だから、上野の不忍池のベンチに座り、水鳥が思い思いに憩っている様を見ていると、とても心が落ち着いたのだった。
東京が好きで、東京にいることに対して大きな意味を見出し、辛い仕事を我慢しながらも住んでいた東京との再会なら、もっとはしゃいでもいいはずだったのに。
たった10ヶ月の間に、東京に対してここまで負い目を感じるようになってしまうものだろうか。
「地方の人間」としてふさわしい態度を取れるようになっただけなのかもしれない。
すなわち、東京の賑やかさや、自然の少なさ、物価の高さ、時々起きる事件の理不尽さや恐ろしさ、そういったものに対して驚き恐れ、やっぱり東京にいなくて良かった、東京よりも地方の方が幸せなんだと自分に言い聞かせるために東京を下げる態度である。
そこには、東京暮らしへの羨ましさや、東京で暮らしていた頃の自分のステータスを懐かしく思う気持ちも、勿論含まれている。
東京から帰る日、少し寂しくなった。
夜だったせいもあるかもしれないが、地方移住の日に飛行機へ乗り込んだ時よりも寂しかったかもしれない。
しかし、いざ地方に戻ってくると「もう自分と周囲を比較して落ち込む必要はないんだ」と、とても落ち着いてしまった。
ただし、「比較」の、いい意味での後遺症は持ち帰ってきた。
ここ数日、ダイエットのための食事管理アプリ「あすけん」と歩数計アプリを活用している。
睡眠中の中途覚醒の症状を改善すべく、睡眠の質改善アプリも始めた。
それでも、欲しいものがすぐそばにあったり、見たいものがすぐ近くにあったりする東京は、やはり憧れの地だ。
今後も時々は、あの喧騒の中に身を置いてみたい。
東京でしか享受できない色々を、感じられる自分でいたい、そう思う。
東京で暮らし続けるということは、一種のステータスだ。
東京で衣食住を整え、趣味にも興じたいとなれば、ある一定のお金が要る。
そのためには一定収入を得られる仕事に就き、働き続け、多少の辛さや理不尽にも耐える必要がある。
同様に、東京と接点を持ち続けたいと願うことも、一種のステータスなのかもしれない。
今後、地方に暮らしながら、時々東京や大阪などの大きな都市に行きたいというのであれば、先立つものが必要だ。
まずはお金、次に情報。
この二つは手元に置いておかなければならない。改めてそう思った。
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