テストをするのは何のため?
私の母は、学歴大好きな人でした。
本人は放任主義だと言っていたけれど、成績が下がればあからさまに機嫌が悪くなったり、「あの子と遊び始めたから」と友達を悪者にしたり。
兄が大学受験本番、数学の試験で焦ってしまい、思うように点が取れなかった時は、
「あんたは数学を舐めちゃいけん」
と何度も言われました。
いやいや、経験した兄が言うならまだしも、母が言うことではないかなと。
そんなことを言っている割に、どの大学がどんな感じなのかについては、まったく興味がなく、自分が知っている大学だったらOKという感じでした。
まあ、時代背景から考えても、わからなくはないんですけどね。
細かいことはノータッチだったので、自分で調べて考えて進路を選ぶことができたのは、結果的によかったと思っています。
そんな母を反面教師にして、私が実践したのは「子どものテストの点であれこれ言わない」ということ。
普段のテストは、理解度のチェックだと思っていて、間違えたらむしろラッキーくらいのもんだと思うんです。
学び直して理解すればいいんですから。
入試本番となれば、また違ってくるでしょうけど、そもそも、当日一発勝負のペーパーテストだけで判断するシステム自体、私は好きではありません。
テストの点が悪くて叱られることで、間違えたり失敗するのはダメだと思ってしまう気がするんですよね。
そうやって育てられながら、一方で「失敗してもいい、チャレンジしなさい」なんて、大人の都合というか、かなり矛盾していると思います。
日本人が、学校で英語をあれだけ学んでいても喋れないというのも「間違えたら恥ずかしい」とか「文法が違ってるかも」とか、考えすぎちゃうからじゃないかと。
※ちなみに私も英語はめちゃくちゃ苦手です(笑)
このようなことは国民性も大きく影響してきますよね。
香港駐在中、フィリピン人のメイドさんにサポートをお願いしていた時のこと。
彼女は「英語ができます!」と堂々と言っていたにも関わらず、実際に話してみたら、
主語はすべて「She」だったかどうだったか。
さらに、すべて現在形なので、最後に「tomorrow」とつけば「あー、明日のことね」と理解する。
なので、こちらも、とにかく伝えることが最優先とばかり、彼女に通じる英語で喋っていました。
もう、そうなってくると、逆に文法が邪魔になるくらいで、正しい英語で話す夫の言うことが彼女には伝わらず、私がなんちゃって英語で通訳するという状態。
お互いが第二言語という開き直りで、当時は結構、話すのが楽しかったですね。
とはいえ、アメリカ駐在時は、ネイティブ相手だったから、苦手意識増し増し、一気におとなしくなりました。そこは、The 小心者(笑)
話がずれましたが
子ども時代に、親や大人によってつけられたマイナスなものって、なかなか簡単に払拭できるものではありません。
ただ、払拭できないわけではない。
子どもに対してであれば、まずは親が対応を変えればいいし、
もう大人になってしまっていたら、親やそれまでの教育のせいにせず、自らの意志で仕切り直す。
大人だったら、生き方は自分で選べるはずだし、親のせいとかにしている時間がもったいないです。
本人さえその気になれば、いつでも変わることができる。
私は、そう思っています。