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「投げたドンタコス」理論

 この場所を評価するための理論を、ニートは考える。

◆◆◆
 30歳ニートは、実家の縁側に座っていた。よく晴れた土曜日の昼さがりだった。
 網戸を開けて庭をながめる。太陽が照っていて、11月だというのに暖かさを感じる。
 30歳ニートは、なごやかな心持ちで、スナック菓子のドンタコスをぽりぽり食べる。袋から1枚をていねいにとりだして、口に放り込んで、噛みしめる。視線は遠くの林を見つめている。
 指先に残った、小さいドンタコスのかけらをふと見やる。そして、ニートは、そのかけらをなんとなしに庭に投げた。車のタイヤの形にえぐれてでこぼこになった土の地面の上に落ちた。

◆◆◆
 投げて、落ちて、ニートは考える。
 あのドンタコスが落下したポイントをD地点と呼ぼう。さて、再度ドンタコスのかけらを投げて、ふたたびD地点におさまるだろうか。
 次につまむドンタコスのかけらは形も大きさも、D地点に落ちたものとちがう。かすかながらも風も吹いている。最初に投げたときの力加減なんて覚えていない。
 答えは明白だ、非常に難しい。
 なんとなしで生まれたD地点は、目標にすえたとたんに、到達が難しいいちポイントに昇華した。

◆◆◆
 30歳ニートが安穏と座っているこの縁側は、このニートがなんとなくで30年間生きたすえに行きついた場所であった。
 30年分の「なんとなく」が複雑にからみ合って成り立ったこの縁側は、D地点と同じ本質を持っていると考える。ゆえに、もし僕が過去にもどって人生をやり直す力があったとしても、同じ場所に立つのは困難であるはずだ。いわんや他人が到達することは不可能だ。
 どんな人生であっても、僕たちが今現在いるこの場所は、唯一無二の価値があると認めてもいいのではないだろうか。

◆◆◆
 いや、この理論は不十分だ。
 D地点が価値を持つ場合は、だれかがその地点を「目標」と定めたときにかぎられる。つまり、30歳ニートの縁側をゴールにする者がひとりでもいなければいけない。
 いるのだろうか。いや、いないだろう。
 ニートは途方に暮れる。僕の理論はこのまま破綻してしまうのだろうか。
 さけるチーズを食べる。温かい部屋にずっとおいていたせいでうまくさけない。しょうゆせんべいも食べる。キリンレモンをあおる。
「悪魔の証明」ということばが頭をよぎる。スマホであらためて調べると、「消極的事実の証明」ということばにも行き当たる。
「ない」の証明は非常に困難だ、ということ。つまり、「30歳ニートwithお菓子on縁側のD地点を目指すひとがいない」とは断言ができないのだ。
 この抜け道により僕の理論は破綻をまぬがれた、とニートは思いいたった。

◆◆◆
 暖かい陽気のもと、子どものころから見ていた庭の風景をながめ続ける。
 庭に落ちたドンタコスに、アリは寄りついていない。
 ニートは気がついていた。自分が本当にほしかったのは理論じゃない。ニートの現在を肯定する理由だった。
 無音の時間が続く。空はなおも青い。
 ニートは願った。僕の指先から放たれたあのドンタコスがアリの食糧になりますように。そうすれば、アリの飢えは満たされて、僕の飢えも満たされるだろう。
 11月らしい寒い風が吹いた。

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