フグタ夫人の憂鬱
過去にmixiに書いた日記の中からサルベージします。
磯野家はなぜ赤字?
「今月も赤字だわ」
フグタ夫人は夫に聞こえる聞こえないか程度のささやかなため息を漏らした。
「ニューヨークの資産運用が上手くいってないのよ」
最新式のタブレットを白く美しいひとさしゆびで撫でると、夫人の頬に微かな赤みが差した。
「ロンドンは少し業績が上がったみたい」
「それもほんの一時的なものだろう。もともと私はヨーロッパ方面への投資は乗り気ではなかったのだ」
フグタ氏は僅かな希望を見つけようと必死な妻に、出来るだけ非難がましい口調にならないよう配慮しながら呟いた。
「あら、あたくしがロッテルダムの会社を買収したときは褒めてくださったのに」
すこし憤慨した様子でフグタ夫人は、ソファに座る夫に視線を送る。もちろん夫の非難は実に正当なもので、ロッテルダムの投資顧問会社はすぐに大手に身売りしたのでイソノ・カンパニーの手にした数億ユーロの利益は、ほんの3年間しか受け取れなかったのだが。
「ねえハニー、僕はこう思うのだよ。そろそろ海外投資に見切りをつけて我々の足元を見直す時期ではないかな」
「貴方がご自分の同族会社に資金を回したいのは承知していますわ。でももう少しだけカツオに任せても良いと思うの。彼も今ルクセンブルクでニューヨークの動向を見守っているはずよ。」
「カッツォ! 彼は一族の問題児だよ。君が実弟に甘いのは構わんがこれはビジネスの話ではなかったのかね?」
フグタ氏はわざとイタリア語の卑語を思わせる発音で夫人の弟の名前を呼ぶので、本当にイライラしているのだと夫人にも伝わった。普段は温厚な実業家の夫が、妻の弟の話題になるとエレガントさを失うのが夫人には辛かった。数年前にパリ市場で大失態を演じた弟のことを夫はまだ許していないのだ。
「ねえ、まだあたくしのこと、愛してる?」
「サザエ・・・」
夫が名前を呼ぶのも夫人には儀式の一部に思われるのだった。疑問符、諍い、抱擁、接吻、そして和解という小さなコース。ところが今日はいつもと違っていた。
「サザエ・・・実は君に知らせたいことがある」
甘い台詞を期待して微笑みかけた夫人の表情が凍り付く。フグタ氏の両目はいままで見たことのない虚無を湛えていたのが判ったからだ。
「何かしら、こわい顔をして」
その時突然寝室のドアが開いて、元気な声が響き渡る。
「ママン! パパ!聞いてよ! 僕、馬に乗れるようになったんだよ!」
令息のタラが瞳をキラキラさせながらフグタ氏に飛びつく。
最近習うようになった乗馬に夢中になっているのは執事から聞いていたが、カンパニーの長(おさ)であるナミヘー会長は可愛い孫が怪我をするのではないかと心配しているようだ。
「タラ・・・パパとママは今とても大切なお話をしているの。お馬の話はまた明日聞きましょうね」
2013年5月18日